洋館と文学紳士とありったけ文庫

千本出水の住宅街の中に見捨てられたような緑が茂る一角がある。ギャラリーと書かれた民家に迷い込み、そこの主人の案内の下に「ありったけ文庫」と名付けられた仕事場に通された。主人は昔の音楽家のような長髪を左右に分けた風貌で、職を忘れて何かに没頭する研究者に有り勝ちな少し不健康そうな細い体をしている。会話の合間に薄暗い部屋の中を白い煙で燻らせる。


机の上には粘土で作った一寸ほどの大きさの売るつもりか売れるのか判然としない動物模型達が四、五十ほども並ぶ。床の上には色褪せた鳥類の写真類が高く積まれている。すっかりプラスチックが黄ばんだパソコンには書き途中の原稿が映っている。野鳥の本であるらしい。部屋の入口の天井まである本棚の前に立つと主人が「好きな本をもってってよ」と声をかけてくれた。まだ自分が生まれる前に刷られた遠藤周作の「牧歌」を手にとった。元々白かったであろう余白は茶色に焼け、その中には昔の文庫本特有のかくばった小さいフォントが浮かぶ。セピア色に退色しているのが気に入って頂くことにした。「その黄ばみは曝されたからじゃなく煙草に燻されたからだろう」と肩越しに言った。



お礼を言い、世間に取り残された洋館の雰囲気と思わぬ収穫物に気を良くして後にした。すっかり観光地として商業化された京都で全く見知らぬもの同士が金を介さないやりとりがなされることに不思議な長閑さを感じる。サロンの空気がある。キャリア、専門性、経済力。そんなつまらんこといわなくても豊かに生きていけると主張しているかのようだった。


帰り道に三条寺町の大勢が行き来する横のギャラリーで写真展が開かれていたのをたまたま覗いたのだが無修正の女性の裸体写真が並んでおり面食らった。ファインアートなのだろうが無届非合法なのだろう。鑑賞者には遠方からわざわざ訪れた熱心なファン、それも若くお洒落で容姿の綺麗な女性が多かった。アブノーマルな趣味には違いないのだろうけれども、臆することなく自分に正直にいることに尊敬の念のようなものを感じたのを覚えている。


不思議なもてなし方をする洋館主人やら非合法サブカルチャーやらやりたいことを自由にやる人たちを抱擁する京都。なんだか嬉しくなった。