ラストサムライ

民放で放映されていた。つっこみどころが多すぎて悲劇の中にも多少の笑いが混ざる。計算ずくで狙ったのだろうか。種子島に火縄銃が伝わって半世紀もたたぬうちに日本は50万丁以上を保有し、西欧を含めて世界最大の銃保有国となっている。明治維新から遡ること300年も昔に織田信長は鉄砲隊を駆使して騎馬隊を打ち負かしている。にもかかわらずドラマ性の為に勝元ら侍は反乱軍の最大勢力とされながら銃を持たずに槍や刀、弓矢に固執する古い蛮族のように描かれる。白人とインディアンの構図をそのまま嵌めすぎている。


フィクションに難癖をつけてはいかんか。これは渡辺謙一のかっこいい死様を楽しむファンタジーだ。明治天皇の台詞も感慨深い。「Now we have railroads and cannon, Western clothing, but we cannot forget who we are or where we come from.」それにしてももう少しトムクルーズに日本語を練習させることはできなかったのか。この映画もまた、ネイティブアメリカンを侍、ケビンコスナーをトムクルーズに置き換えて複製したような物語だな。「Dances with wolves」が如何に雛形となる素晴らしい作品だったか。


ネイティブアメリカンといえばオサマビンラディンジェロニモというコードネームで呼び、「ジェロニモ」を暗殺する正義を熱狂的に歓迎した大多数の米国民。米国は誰がどう言おうともネイティブアメリカンの地を白人移民が侵略して作った国なのだが、その先住民反乱部族のジェロニモをコードネームに使ってしまうあたりに表面を政治的に綺麗に飾れば飾るほど臭う米国の本音が見え隠れする。


話はずれるが政治的に適切なことを「politically correct」などとよく言うが、肥満の人のことを政治的に適切にgravitationally challengedなどと言う。直訳すれば重力的に努力を強いられている人とでも言えばよいのか。しかし先天性肥満症の人を除き、多くの人は不摂生で太っているのだから受動的な表現ではなく主体的にgravitationally challenging「重力に挑んでいる人」とでも言えばよいのに。やる気が足らんかったり粘り強さに欠ける自分もMotivationally challengedとかpersistently challengedなんぞと言えるのかね。


本音を建前で隠すのは日本文化の特徴のようにいわれることもあるけれど、どこもかしこも建前はありますな。建前など無く本音で話す国民なのだという意見こそが最大の建前なのだが。