霊山護国神社

終戦記念日に参拝しようと思っていたのだが、雨が降っていたので断念していた。今回、改めて友人と東山を歩いて回った際に訪れる機を得た。祖父がビルマ戦線に兵站部隊員として従軍していたこともあり、ここに祀られる何万柱もの御魂はどこかひっかかりを感じる。祖父は生還したから今の自分がいるわけで、戦死していたらこの世にはいない。


入口周辺には漫画のような坂本龍馬のイラストの入った看板やのぼりがあり、場にそぐわないと感じた。過去の犠牲者を祀る性格上、神社にも大衆迎合的な商業化は自粛してもらいたいものだ。しかも墓参りに入場料を取るというのも理解し難い。


護国神社には諸藩、諸県の招魂社がある。果たしてどれだけの人が望んで従軍したのか。散らざるを得なかったのか。国家指導者が導き間違って引き起こした、あるいは回避し損ねた戦争。少なくとも太平洋戦争における殉死者の多くはそれにより亡くなっている。


首相が靖国神社に参拝することは許されて然るべきではないのかね。国家指導者が参拝することは過去の過ちと犠牲を反省し肝に銘じる意義がある。特定の宗教を擁護することが違憲だとかいうテクニカルな議論もわかるが、国家の代表が慰霊碑に向かって追悼することを違憲とするのは一般国民の心情とは大きく異なるのではないのか。国家に軍属を強制されて肉親を失った親族が勝手に護国神社靖国神社に祀ることに拒絶を示すのもわかる。戦争に反対して処刑された軍政下の政治犯も祀られていない。不完全で一方的な見方の上に立つ存在ではあると思う。しかし首相の靖国神社参拝が犠牲者への追悼ではなく過去の戦争の正当化行為であるなどという他国からのずれた意見に屈しているのは随分と情けないことのように思える。

左が坂本龍馬の墓、右が中岡慎太郎の墓。


近代、現代の発展が無数の犠牲の上になりたっている。それを認識し、敬い、自分を顧みて叱咤する。そんなことをするのに不自由するとは理解に苦しむ。寄生しているかのような神社による墓の商業化も邪魔くさい。