9.11

ワールドトレードセンターに旅客機が突っ込んで粉塵を上げていた当時、ルーマニアの港町で働いていた。窓の無い地下の小部屋で一緒に働いていた同僚に声をかけられ、見せられたインターネットの動画ファイルはどこかで地震でもあったのかと思わせる映像だった。同僚は興奮して英語やルーマニア語が入り混じり何を言っているのかわからなかった。暫くして二機目が突っ込み、ビルが次々に崩壊した。もうそうなると仕事にならなかった。「ざまあみろ、アメリカ」誰かがそんな意味の言葉を叫んだのを覚えている。無数の外国人や罪のない人々が犠牲になったとかいろいろ意見はあるが、9.11を見た一部のルーマニア人の率直な心情は他国で無数の罪のない市井の人に横暴を振るったアメリカに対して「ざまあみろ」だった。その場に居合わせた小生は彼を批判するでも同調するでもなく、ああルーマニア人の反応は表層は親米でも一皮下は嫌米な人も少なからずいるのだな、とこれまた傍観者のように騒動を見ていた。


その頃、大学の友人が日本から遊びに来てくれていた。彼女は小生らの下宿先のテレビで9.11を観ていたことをよく覚えており、先週会った際にそのことを話してくれて小生も思い出した。


もう十年前のことだったのか。その当時、衝撃的だった事件も友人に言われるまではすっかり記憶の中に埋もれていた。あれ以来、自分も世の中も変化はしつつあれ本質的に進歩しているようには思えない。


テレビの中の出来事である限りは結局どこまでいっても他人事だし、当世代が過ちを反省している頃には現役を退いていて次世代が別の新たな過ちを犯す。過ちを犯すことを前提に物事を計画するということを世の中も自分も未だにできないままらしい。