葬式

通夜に北鴻巣の竜昌寺へ。良い葬式だったと思う。住職と故人が生前から懇意にしていたこと、そしてプロの司会進行がいたことが大きい。


司会が遺族から聞いた話をまとめて故人の生い立ちや人柄、最期の時の様子を参列者に説明する。参列者はああ故人はそういう人だったよなあ、あるいはそんな最期のやりとりが奥様とあったのかと涙する。火葬も済まし寺に戻り食事を共にしながら、住職も故人の話や故人の生前の行いを仏教に絡めて話をされたりする。


今時、宗派の違いを理解している参列者は少ないと思う。ましてや御経など、聴いて理解できるものではない。いざ亡くなった段で見知らぬ僧侶がやってきて何を言っているかもわからない御経を唱えて遺族と当たり障りのない雑談をして帰るだけなら、セレモニーホールの安かろう速かろう葬式パックが普及するのも当然か。


しかし、今回の葬式の後に一様に聞かれたのが私もこんな葬式にして欲しいとの声。自治体の葬儀は無機質で流れ作業で寂しいと。しかしどこかの寺の檀家でもないし、親交のある住職もいないし、難しいね、と。
寺の世襲制には疑問もあった。寺に男として生まれただけで適性も本人の信仰心もさして問われずに跡を継ぐ。家族の住居の問題や権益も絡む。しかし今回、世襲の別側面も見た。後継ぎ若住職は幼少の頃から檀家と接し、家族の会話の中でもあのおっさんは今、こんな苦労をしている、あんなことをしているといった話を聞いて育つ。そんなわけで住職が先に亡くなられても檀家は若住職に一生を見守られて送られていく。東北の祖父母の寺はそんな感じだ。
法事の度に包む金子が現金収入が少ない農家や高齢者には重い負担だという話も聞くので大変さはあるようではあるが。


信仰は個人でもできる。容易にできないのは葬式なわけで、かつそれは大勢が仏教に接する一番大きなイベントに思う。親しい人の死を突きつけられ生と死に悩むときに、目の前に居るのが業務に励む業者と僧侶ではな。仏教の教えも慈愛も感じない世に一般的な葬式をされたら仏教を軽んじて離れてしまうのもわからんでもない。格安な葬式の普及はおざなりな葬式への失望と諦めの表れであって、本当は多少の金がかかろうとも充実した温かい葬式で送ってやりたいという気持ちは変わらんように思う。 親しい人の死にやりきれない思いを燻らせているときに仏教の知恵に触れさせてもらいたいと思う。


布教などしない現代においては仏教の、檀家制度の、葬式の存在意義や良さを広く認識してもらうには良い葬式を執り行うことが有効なのかもしれない。千年以上積み重ねてきた哲学なわけで、その真価に触れられるようであって欲しい。


自分自身の場合は、葬式は遺族が気持の区切りをつける為のような気がするし墓さえもいらないと思っている。骨は海にでも撒いてもらえたら十分だし、命日にでも友人が居酒屋で自分のことを思い出しながら酒でも飲んでくれたら十分かな。自分のことを知っている住職にお経でもあげてもらえたらなお嬉しい。