人間関係

この年になっても依然としてわからないのは人の心と人間関係。自分自身はコミュニケーション無精だしそれを開き直っていて、悩むほどの濃い人間関係もない不義理な人間なので苦労は今のところ無い。しかし身の回りで人の心はわからんな、と思うことがしばしある。そういうものがわかるようになると人間としてより成熟できると思うし、物事をもっとうまく進められるようになると思うのだが難しい。


とある友人に、自分の親しい友人だと紹介された幾人かの友人。いわゆる、友人の友人であるわけだがときおり幾人かで一緒に飲み食いしたりするようになった。さらにそれぞれが自分の友人になって個別に会うようになってわかったのは、その友人同士が果たして親しいのか微妙な複雑に意識した関係だということ。


蓋を開けてみるとわかった友人間の事実

  • お互いの弱みは一切見せ合っていない
  • 相手の友人の理解者だと私に言う
  • お互いに話を合わせるのにとても気疲れしている
  • 友人らは個別にそれぞれの友人に対する愚痴を私に言う
  • どこかで相手の楽しそうな近況を知ると心が乱される


友人などではないことを自覚すればよいのに。仲良しグループかと思いきや、一皮下ではお互い嫌悪を抱きながら表面上は仲良しの振りをしていたという例はこれまで何度か見てきた。それなら、無理して付き合わなければ良いのにと思う。


愚痴を吐くほど気疲れするのに仲の良い友人であるように装う心理は何なのだろうか。容姿や職業などで映える友人が自分にもいることを示したい見栄、あるいは友人がいないと認めたくない意地なのか。友人が多いことが人望がある、あるいはその人に魅力があることの証明のように思っているのだろうか。やたらFacebookだのSNSの友人申請をしてきたり、Twitterで何人フォロワーが増えたかを気にしたりする人が増えたように思う。小中学生なんかでも「空気が読めて、明るくて友達が多い」というのが今の子供達の絶対肯定的な価値観らしく、仲間外れにされないために無理して陽気に振舞う子供が増えているなんて話を思い出した。しょうもないチンピラほど事あるごとに「仲間」なんて言葉を出して、群れに従うことを強要する。ああ、学生時代のあの嫌な空気を思い出した。そういうのが関連しているのだろうか。


もっと孤独であることを受け入れてもいいように思う。一、二回会っただけの人が後日、共通の知人に会ったときに私のことを仲の良い友人だと言っていたと後で知らされた時、何とも言えない薄っぺらさを感じた。「友人」という言葉をさりげなく会話に混ぜてお互いの関係を明示したがる人にも同様のものを感じる。嫁、夫とて何年も一緒に住んでようやく相手のことがわかるぐらいなもので、100人も200人もお互いのことをわかりあえる「友人」を作れるとは思わない。オンラインSNSの友人の数であったり、飲み会で声をかけて呼べる友人の数であったり、目に見える形で友人の多さを示そうとするのは人間関係の希薄さの裏返しなのか。自分の身の丈にあった頻度と濃さで人間関係を築いたら良いと思うのだが。


とは言っても、孤独に開き直るのが良いとも思わない。それなりに何かをするには人との協力が必要になる。タイやインドにできた部下と今後は直接会う機会など殆ど無い状態で仕事を進めていくことになった。どうせなら、単なる仕事を超えて、表面上取り繕った関係ではなく、一緒に働く時間や自分自身の存在がせめて彼らの人生にとってマイナスではなくプラスとなって欲しい。その為には少ない接点と限られたコミュニケーション手段の中でお互いを少しでも深く理解し合えるようにしたい。そういうことを学びたい。



古生代から姿を変えないもの同士、カブトガニとオウムガイ。意思疎通しているのだろうか。