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ニュータウン

思索

独特の響きと匂いがする。多摩ニュータウンを筆頭にあちらこちらにニュータウンが散在するが、名前とは裏腹に20年やら30年やら経っていて高度成長期に首都圏は開拓され尽くしているので本当に今現在で新しいニュータウン何ぞはない。


ひかりが丘、ユーカリが丘、希望ヶ丘、自由ヶ丘。ゆうやけ橋、せせらぎの路、くさぶえの路。あの橋から見る夕陽は綺麗だよね、あの公園のせせらぎは癒されるよねという客観的な評判からいつしかそう呼ばれるようになったわけでもなく、自称してしまっているところに浅薄さを感じる。


東急だの西武だの街のディベロッパーが田園や丘陵地に売れそうな名前を新たにつけて売り出すからだと嫁さんは言う。なるほどな。



確かに封ジ山だの竹鼻だの御陵といった以前住んでいた京都の地名よりも新しく明るく解放的で、マイホームを夢見る人は惹かれるのかもしれない。地名の由来は何なのだろうだとか、いつ頃から使われている地名だろうとか、そういう好奇心は全く刺激されないが。



現時点でのニュータウンへのイメージはというと、重松清の小説の舞台のような街。犯罪でも起ころうものなら、幸せそうな核家族で何故?などと見出しをつけられて現代社会の相互無関心や同質化圧力やらが語られるような場所だ。進歩的な試みが随所に見られ、今までとは別種の満たされるものと満たされないものが見えてくるところ。


目新しさが魅力ではなくなった頃に何がニュータウンの魅力として際立って来るのか興味がある。