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苔の秘湯 蒼の山荘

自家用車を持っているうちでなければまず訪れないだろう場所に行っておきたいので、神奈川の丹沢湖に近い中川温泉に行くことにした。ようは、日本秘湯を守る会の加盟宿である蒼の山荘に泊まってみたかった。


典型的なウェブサイトが美化され過ぎた宿だと思う。緑に包まれた山荘。嘘ではないが、過大な期待を抱かせる造り込み方だ。良いウェブデザイン会社を見つけたな、などと思ってしまう。


細部に配慮がされていない。入り口にはコードが剥き出しのモニターが設置されていたり、階段の隅にはゴミが溜まっていたり。床やなんかは改修されていて、磨きこまれた床板の風情なんかを好む客には興醒め。設備の豪華さはなくとも泉質の良い湯と素朴な建物の山荘というコンセプトだと思ったが、そうだとしてもビニールクロス床材での改修はあまりに安普請というか風情に欠けるというか。


1万4千円も出せば他に設えのしっかりした宿はいくらでもある。野趣を追求するにしろ、その方向で手入れされた宿はたくさんあろう。宿選びを間違った。期待値が到着してすぐに落ちるところまで落ち切った。諦めよう。もう期待することなく目の前のものを受け入れよう。


そうなると開き直るのか、楽しみ方も自然と切り替わる。嫁さんも文句を何も言わず、静かでゆっくりできるからたまにはこういうところも良いと言ってくれるのが救いだ。


十部屋の小規模な宿だが、客は他にいない様子。秘湯の宿の目玉である湯を、他の客がくる前に満喫しようとまだ午後3時の明るい日差しの中、風呂へ。


内風呂は4畳弱ほどの湯船。秘湯というより近代産業遺産というか廃墟に近い。5つの照明のうち、3つは木部が腐って外れかかっている。点灯するのは2つだけ。中のコンクリートも腐食しているのではないかと心配になるほど塗装が剥がれかけている。水洗に問題はなさそうなのでケロヨン桶を手元に寄せ、軽く体の汚れを流してまずは露天風呂へ向かう。


湯船の湯が緑がかっている。浴槽に生える藻の色かもしれない。湯舟に足を踏み込むと、足裏がヌルりとした。水面には夥しい羽虫が浮いている。どうやら客が来る前に清掃していないらしい。手で湯をかき混ぜて、浮いた虫の死骸を端に散らして入った。湯に浸かると、丁度、春になって芽吹いたモミジや石蕗の若葉が目線の先に入ってくる。野趣溢れる様は秘湯と呼んでも差し支えない。ただ、遠くまで視線の抜ける眺望というよりは藪の緑の中の湯ではある。源泉は39度とぬるい為、加熱と循環濾過はしているが加水、殺菌はしていないという。冷えた体の芯を温めるには物足りないので内風呂に戻ることにした。


高窓が常時開けられているものの、やはり内風呂のほうが熱い。石組の湯舟はシンプルで悪くない。ふと窓辺に視線を向けて、驚いた。窓辺に苔が生えている。それはもう、鬱蒼としている。垂直のアルミサッシに苔が着生するなんて聞いたことが無い。理屈上は仮根が安定させられれば無機物だろうと構わないはずだが、常識ハズレだ。俄かに心が踊り始める。


無論、陽当たりが良く、常時湯が循環しており湯飛沫が飛んでくる湿度の高い環境が苔の生育に適していることはわかる。しかし火成岩には生えているものの、玄武岩らしき岩には生えていなかったりと観察してみると苔の気難しさはある。ph10の強アルカリ泉であることは関係しているのだろうか。


苔好きには堪らんだろうな。今まで、好きな温泉と苔の組み合わせなど考えたことも無かった。


藻が発生してヌメヌメしたのを拭きたい誘惑にかられながらも我慢し、幾世代も屍を重ねてようやく垂直のアルミサッシにも苔が仮根を降ろせる。


苔生した岩に縁取られた露天風呂ですらなかなかお目にかかれないのに苔に包まれた内風呂なんて日本国内唯一無二かもしれない。


温泉の泉質もとろみが感じられて良いし、透明だが成分は濃い。さらに長湯できるほどに温度はぬるめ。気持ちの良い温泉湯に長居しながら苔を愉しめるとは。それが東京から1時間半の身近なところにある驚き。四月の土曜日に結局大人5人しか客がなかったわけだから経営はそんなに楽では無いはずだ。全国に潜む苔愛好家、温泉愛好家、さらに廃墟愛好家にもう少し喧伝してはどうか。