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中年クライシス小説「月と6ペンス」

映画 思索

 

敬愛する河合隼雄氏ですらミスは犯すのだな。

 
買ってから暫く放置していたサマーセット・モームの「月と6ペンス」をおもむろに読み始めたら止まらない。これこそ河合隼雄氏が「中年クライシス」に収録すべきだった大人の中二病小説ではないのか。収録した数冊分の中年クライシスの類型がこの一冊から得られるというのに。そして小説としても惹き込まれる。
 
自分の中に燻るクズ属性を刺激してくる。無謀で浅はかだとわかっていても守るべきことを一度に全て投げ出すのも一興と思わせる危険な頽廃的な何か。吹っ切れたらいろいろとどうでもよくなる境地が数段先にあることがなんとなくわかる。全て捨てたあとに後悔したり行き詰まったら、あとは自分の命も捨てて幕を閉じれば良いじゃないか。割り切ったら割り切れてしまうかもしれない。そういう自暴自棄への甘美な誘い。

 

ゴーギャンの顔を私は知らない。赤ひげを生やし、原始的な生命力に溢れた無骨な絵を描く、生前評価されることの少なかった画家。残念ながら、ひたすら頭に浮かぶのはゴッホ。友人に捨てられて神経質でヒステリックで内向的で自殺するようなゴッホと、ゴーギャンをモデルに描かれるストリックランドという男の素性は正反対だ。想像する登場人物と脳内で浮かぶゴッホの像が一致しなさすぎて困る。
 
体裁や倫理を装うことを辞めた先に残るものは何か。社会性の為の装いを捨てたならば、ストリックランドのような本能に訴えかける絵が描けるのか。絵を陶芸に置き換えた場合、意味するものは何か。
 
バルザックにしろ、モームにしろ、人間に同居する美醜の複雑性や残酷さをあぶり出すのが鮮やかだ。こういうものをえぐり出せる作家というのは日本人作家には少ないように思う。個人主義で育ち、自己を徹底して見つめる西洋人の素養か。ストリックランド、ブランチは皆、不可解な人物なようでいて生々しいのは直感的に自らに似た要素の断片を認めるからなのかもしれない。

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そういえば、京都の中京区のアパートの二階に小説と同名の「月と6ペンス」というカフェがあった。カウンター席しかなく、席には文庫本が並べてあるカフェだ。

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小説の内容を知らない昔は、なんとなく洋画にかぶれた学生がそう口に出したいだけじゃないかとばかりに好きな映画は「セックスと嘘とビデオテープ」と宣うのに似て、なんとなく名作と言われる舶来小説の中からオシャレな題名として「月と6ペンス」と付けたのかと思っていた。しかしオーナーが中年に差し掛かって開業したカフェであり、かつ月と6ペンスが典型的な「中年クライシス」小説であることを知った今となっては、あのカフェは赤面したくなるぐらいの凝縮された中年クライシスカフェだという姿が見えてきた。

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カフェ「月と6ペンス」に無性に行きたくなってくる。ああ、京都に住んでた頃は何もわかってない毛の生えてないガキでした。今はもう、ようやく、物事を少しはわかる毛の生えた大人、かつ中二病をこじらせたおっさんになりましたよ。そういう顔をしてあの隠れ家カフェのアパート然としたアイアンドアを開けられる気がする。
 
断っておくが上記はカフェに対しての自分なりのかなりの賛美だ。

 

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)