読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

白樺の樹の下で

思索

「妻をめとらば」で直木賞を受賞した青山文平著「かけおちる」が良かったのでこちらも読んでみた。

白樫の樹の下で (文春文庫)

白樫の樹の下で (文春文庫)


昨日の「ほかならぬ人へ」を頭の中でひきずっている。想いを寄せる相手や自分の出自、器量などが掛け違っていることでなぜ、こうも無用に少なからぬ人が苦しみ悩む羽目になるのか。その不条理は白石一文が書く「かけちがい」の通りかもな、と思う。


「白樺の樹の下で」を読みながら、ああ犯人はあの人だろう。いや違うのか、この人なのか、そういう展開か?と次々と予想を裏切られていき、読み終わって気付いたら深夜2時の冷たくなった湯船の中だった。日付が変わる頃に、明日の朝は大事な会議だと嘆いて本を閉じようと一度は思ったのに。やめられなかった。娯楽作品としても終盤にかけて一気に引き込んで読ませる魅力がある。


結末は見知らぬ男に最後の段になって横槍を入れられ、肝心なものを掻っ攫われた感がある。現実はそういうものかもしれないが、せめて小説の中では伏線外のそれまで登場してこなかった人を犯人にはしないでほしいものだ。


時代小説は格差社会封建社会で男女に明確な不平等のある、自らの日常生活からしたら現実味の薄い世界でのことなのでリアリティーへの期待値が緩くなる。そのおかげで設定の粗さも気にならなくなる。


時代小説は筋を通すことが重要な価値観だった世界だ。不義を犯せば討たれても仕方ない。切腹を賛美しないが、過ちに対する始末のつけ方に潔さが一貫しているので安心して読める。


その点、「あいつは結婚できるような女じゃなかった」などと被害者ぶった愚痴をこぼしながら既婚者に手を出すような、自省に欠け、始末の悪さや身勝手さに溢れた怠惰で自己愛の強い人間だらけの白石一文作品は不快だった。今の世の中はそういうモンだろ、それが本質の描写というものだ、と言いたげな作者に、自分や周囲がそうだからといって今の世の中を代弁しているかのような物言いをするなと文句をつけたくなる。


筋を通す、自己抑制、一途、矜持、潔さ、仇討ち、身を賭した勝負、暴発する反権威、自己欺瞞への葛藤、ダメ人間でも一所懸命な人への温かさ。好きな要素を書き出すと茶の間で時代劇を愉しむ大衆そのままの人間だということがわかる。


自らの価値観の頽廃に開き直ることを、自分に正直に生きることと混同した世界観は不快だ。性的に乱れた純愛なんぞは許容できない。白石一文作品のことだが。


「かけおちる」に登場する、生に執着の薄い夫婦の心理描写。「白樺の樹の下で」に登場する恋い焦がれた相手も友人も手にかけ、どこから間違えて何をどう直したら良いかわからず錯乱する男の心理描写。誰も求めてない責任感で自ら締め付けて苦しむ滑稽さ。これらの感覚、わかるような気がする。もしかしたら、白石一文よりも青山文平のほうが価値観や経験において自分に近いのかもしれない。それだけの話かもしれない。


言葉が豊か。詩情豊かというのか。こんな風に表現できるのか、と感嘆する。