枝垂れ桜はこんなに綺麗なのに

来る人、去る人の増える季節。惜しまれながら送り出されている人が、内実はカウンセリングアウトと呼ばれる退職勧奨だったりもして内情を知る立場にあると、「辞められてしまうなんて残念です」なんて常套句も上辺だけの偽善的な言葉になり、言えなくなる。部門間の諍い、降格、不本意な評価、極め付けは鬱などでの就業不能。組織が大きいと散見される。そういうのを見続けながら、自分の腹の底に鬱屈とした何かが溜まり続けている気がする。

 

 

今の組織内での評価なんて転職先では誰も知らないだろうし、プライドと自己満足の問題に過ぎないかもしれないし、人生という大局から見たら瑣末。社内での出世や評価に充足と幸せを見出そうとするとロクなことにならないと思っている。

 

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(朝、会社への道を遠回りして立ち寄った桜)

 

仕事と私生活の両立、自らの限界の見極めという視点で考えさせられることが最近、周囲に多い事情がある。

 

例えば、過労やストレスで就労不能になることを避けるために自らの業績が下がることを承知でギブアップするという判断。

 

就労不能になった場合の公私での辛苦をきちんと天秤の片側に掛けて物事を判断できる人はどれだけいるのだろう。他人事ならば体や心を壊してまでするなんて馬鹿らしいと誰もが思いながら、いざ自分の問題となるとその退き際を適切に判断できる人は少ない。

 

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(なんとも美麗な桜滝。花をつけずに長く伸び、その枝先に数輪咲かせているやつもあれば、枝先までみっちり咲かせているやつもある。面白い。違いは何だろう)

 

 

一歩掘り下げると、何やら怒りのようなものを感じる。誰かが疲弊して倒れていく間に同じ組織内で他の誰かによって無自覚や無思慮でリソースが無駄遣いされたり、誰かが比較的楽な思いをしているという現実。

 

まわりが退くことを許さないというのも難しい問題。本当に救難信号を出していて潰れる寸前なのが傍目から明らかならば、周りからの理解も得やすいだろう。しかしそういう人は獅子奮迅の働きをしている優秀な人で、二人分の仕事をしているだとか違いが顕著だったりもする。そんな人は少ない。傍目から見て、他の人よりも特別に業務量が多いようには見えないケースが問題だ。ギブアップ宣言は気をつけないと楽しようとしている、逃げだ、まわりの人と公平な負荷を負うべきだ、などと思われる。

 

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(京都の寺町や一之船入、疏水、府立植物園なんかを思い出す。水辺と桜は相性が良い)

 

 

過去に参照できる類似経験がない

今が臨界点だと知覚できない

自分はそうならないと過信する

負け、逃げだと思われることへの恐れ

 

まわりが退くことを許さない

 

そもそもが、誰かが身を粉にして尽くすほどの価値のある仕事だと思えない。一家の大黒柱が心をへし折られ、家族が焦燥と不安に駆られるとしても了解のもとに犠牲を強いるような崇高で大層な仕事などあるのかね。想像力に乏しいが途上国や離島の医療関係者のように、自分が休むその1日で誰か救えない人がいるかもしれない、とわかるぐらい明らかな状況は少ないのではないか。それにも関わらず、心や体を壊す人を生み出しながら大きな組織は回っていく。

 

 

くっだらねえ

 

なんでそこまで頑張ってしまうのよ

 

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(無数の花の中にもカメラ目線で撮ってくれと言わんばかりにまわりから浮き立って、輝いて目にとまる花がある。同じ樹の花じゃないかと思うが、花にも個性があるのかね。不思議。)

 

 

自己犠牲で責任を果たしても、会社や組織は恩義など感じない。そもそも組織という単一の人はいない。恩義を感じて欲しいとして対象は誰になるのだろう。組織の長や人事は淡々と無理をして潰れた人を「健康に懸念のある不安定な人材」というカテゴリーに仕分けて対応していくだけだ。残念ながら。

 

 

インタビューや記事で社長が「社員の幸せ」なんてことを言っていて、そんな発言をひねた目で見ていたけれども、無数の社員が人生の大半を費やす場なのだからせめてそれが辛苦の場ではなく幸せを感じられる場にしたいという気持ちはわかる気がしてきている。

 

 

責任感のある人が無理をせずに済み、適切に報われる組織が理想。現実がそうでないならば、妥当な責任範囲を超えて自己犠牲などせずに逃げろ。自分の身を守れ、とそう思う。数年前に鬱で辞めた人のことをどれだけの人が今も話題に上げているのか、気にしているのか、感謝しているのか。

 

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(これは1週間前の写真。定点観測して同じ角度からタイムラプスで撮ったら川がパッと桜色に発色するような幻想的な動画になるのではないか。)

 

 

話は作陶に飛ぶ。

情念のようなものを込めた作品というものを作りたい。単に形が器用だ、色が綺麗だ、素人の割には上手だ、というものではない。不器用に見えても、汚くても、如何にも素人な下手さだな、と思われるとしても。

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凛とした清浄な何かが感じられる神鹿を作りたかったのではないか。その次の作品にそんな気配は微塵も感じない。1時間で造形できたなんて喜んでいて情けない。目だけにさらに1時間かけるぐらいの情念の作品への刷り込み、練りこみのようなものが必要なのではなかろうか。自己満足に過ぎず、他の人には伝わらないだろうけれども、立位の鹿には座位の鹿にはこもっていない自分のその制作時の感情を確かに感じ取れるのだよな。

 

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ただ釉薬を掛けて焼くのもつまらないから鳥の図案をそこらにあった本から真似して鬼板で絵付けした。それにさらにチタンマット釉を掛ける。それなりに綺麗に焼けるのかもしれないが、こういうのが本当にダメなのだと思う。材料の無駄。

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子供の頃、小学校の図書室で手塚治虫の「火の鳥」を読んだ。鳳凰編で隻眼隻腕の主人公が世への忿怒を一心不乱にぶつけて鬼瓦を作る場面がある。

 

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10年前に作った自分の作品を見て、ああ、この頃は自分は土にこんな感情をぶつけていたんだな、と読み取れるようなものを作りたい。