自らモノを作り、売り、お金をいただく。原始的だがらこそ純度の高い幸せ。

MinneやCreemaなどのオンラインハンドメイド販売サイトで豆鹿頭骨鉢を売りにだそうと計画している。

 

いくらで値付けをすればよいのかが悩ましい。


こちらとしても値下げして処分したいわけではなく、現金化に追われているわけでもなく、安いから買うというだけの人に買ってほしいわけでもない。


陶器が好き、鹿が好き、多肉植物やドライプランツが好き。それら要素を全て満たしてくれるモノがなかった。そこに価値を見出してくれて、少し高いけれども買ってくれて大事にしてくれる、という人。そういう人に買ってほしいのだ。売れなくても構わないが、私と同じ好みを共有する人になら手放しても抵抗のない値段で売りたい。そんなニッチな客層に限定された供給の僅かなモノの売り買いだ。

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完全に自己満足で自分の好みに基づいて自分の家に置きたいモノを作っていたので、世間一般のニーズや評価が全くわからない。妻からは「貰っても困るガラクタ」扱いだ。「もう焼いちゃったら土として使えないんでしょ」とは材料以下の価値と見做した物言いだ。

 

 

そんな折、陶芸教室の作陶展でご一緒する方が豆鹿頭骨鉢をまとめて全部買いたいと言ってくれていると聞いた。実際にはその方のお子さん夫婦が欲しいらしい。さらには作陶展を見に来てくれたかつて陶芸教室でご一緒していた方が経営されているカフェレストランで作品を飾りたいので貸してくれないか、と聞かれた。「カフェの客で買いたい人がいたら手放しても良いんですか」とのこと。気に入ってくれる人がいるなら、喜んで、だ。

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お金を出してでも買いたいというのは一つの好意の表現だし、売手と買手の共通の価値観の確認行為なのだと気付いた次第

 

 

頭ではわかっていても、この喜びは体感しないとわからない。勤め先で評価され昇給しても嬉しくはあるものの、組織人としてはどこまでが市場や業績の幸運によるものでどれだけが自分の力かは判然としない。自らが作り出したものを売った場合は100%がその作品への評価であり、その作り手への評価だ。それが新鮮でとても嬉しい。


 

自分の作品をお金を出してでも買いたいという人が少なくとも3人以上いたことが、ここ最近で一番嬉しかったこと。陶芸工房の無料の素材だけでなく、身銭を切ってもっと自分の求める表現を探求していきたい。

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こちらの鹿もご指名が入った。カフェに置かせてもらおう。

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鹿以外に、この百舌も。f:id:mangokyoto:20190503225919j:plain

一冬越えて一回り小さくなった。サイズ感がより合うようになって嬉しい。

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4つの豆鹿頭骨鉢の一つに実際に土を入れて植物を植え込んで見ることにした。使用上の不具合がないかは確認しないとな。

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鼻先のドアップ。金網を入れて排水しつつも土は出ないように配慮した。


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大きな花芽のついた錦晃星を植えてみたのだが、正直に言って微妙。思い描いていたような姿にはならなかった。


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ビミョーな顔で横に座るマンゴー殿。花芽に量感が乏しくて、葉の存在感とアンバランス。これが葉もさらに枝分かれして伸びたら良くなるかもしれん。

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マンゴー殿「気の長い話ですな。ドッグイヤーって言葉を知ってます?」

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壁に吊るしても植木鉢として機能することを確認。植え込む植物は茎が太いものがどうやら似合うようだ。言うならば細長く枝分かれする仙人掌。