雑記 虚無感と倦怠感の波の通過を後で振り返れるように

雑記

  1. 私の現状認識は10年間更新されていないことに気づいたショック
  2. ものが溢れているのに欲しいものを見つけられない
  3. 仕事、家庭、趣味の柱の複数が同時に揺らいだり崩れるとしんどい
  4. いろいろと虚しくなって放り投げ出したくなる。虚無感と倦怠感の波。

どのくらいの時間をかけて何を契機に波を越えるのかを後で振り返りたい。人様には無用な備忘録。



1,
陶芸教室の指導をしてくださっていた先生との雑談。

時折、先生の工房に陶芸教室を開催していないか問い合わせがあるそうなのだが、そんな問い合わせも減る一方だという。

先生曰く、都会では娯楽や興味を引くものが溢れているし、陶芸に興味を持つ人は減っているのだろう、と。もっと手軽で結果を即座に得られてお金もかからない魅力的なことが増えているのだろうと。

昔ほど陶器を生活の中で使っていないのも一因かもしれない。より普及しているのは磁器ではなかろうか。それも100円ショップや無印、IKEAなどのシンプルで無地の飽きのこない器。陶の器の魅力に触れる機会も減っているのかもしれない。

私が京都にいた頃には、寺などで開催される手作り市も多く、そこに作品を出店する若い方が増えていると聞いた。皿の厚みのバランスも重心もバラバラでそもそも高台の底を砥石などで磨ぐ作業もすっぽかしたようなアマチュアの作品はなんとなくの雰囲気を纏っている。少なくとも基礎をしっかりと身につけた人の作品とアマチュアの作品が同価格で売られていることに対しての苦言もあちこちで聞いた。

ハンドクラフトの作品を売り買いできるネットやアプリなどの場も発達し、陶芸を趣味にする人も依然として多いものだと思っていたが、そうではないのかもしれない。陶芸教室のオーナーは経営的観点で閉めた方が良い、開き続けるほどに需要がないと判断した。私のなんとなくの感覚よりも、はるかに悩んで考えた末に決断を下したのだ。

考えてみたら、私の中の京都生活時代は既に10年前のこと。京都と東京の違いかと思ったが、そもそも10年の間の変化を私が認識していないのかもしれない。学生の感覚はさすがになくなったけれども、私が社会人になりたての頃と最近とでは物事が大きく変わったのにその自覚が足りてなかったらしい。

陶芸教室がなくなったのもショックだけれども、私の時事感覚が麻痺していることもショックだった。


2,
昔、「家のクローゼットは服と鞄で溢れかえっているのに明日着ていく服がない」と新入社員の若い子が言っていたっけ。

これだけものが溢れている。情報が溢れている。100円ショップは全国に6000店舗もあるそうだし、東京にも駅という駅に店がならび売上が伸びず苦しんでいる話を聞く。情報に関してもかつてないほど電脳空間に情報は載せられ検索できる世の中になった。それでも私が欲しいような陶器の植木鉢は見つからず、だから自分で自分の欲しいものを造っている。青銅錆釉の調合の仕方すらネットで検索しても情報にたどりつけない。

高円寺駅から徒歩圏にできたタピオカ屋の数は10を越え、共倒れが必至な一方で欲しいタイプの飲食店は少ない。花椒の強烈な京都白川の「駱駝」のような中華、京都「アンデパンダン」のような廃墟感のあるカフェ、山科の「春秋山荘」のような蕎麦割烹。陶器の魅力的なカフェ、たこ焼き屋、アルゼンチン赤身肉屋、美味しいハンバーガー屋、タコス屋、レアチーズケーキ専門店、多肉植物だらけのカフェ。

どこかにあるのだろうけれども、たどり着けない。欲しくないもの、興味ないものが目の前には溢れかえっているのに。


3,
仕事のことは書きたくないが、あれこれと厄介事が多い。徒労感が残されることが多い。賽の河原の石積みに思える繰り返しとやり直しにうんざりするときがある。
このご時世に3月に中国に2回もいく事態は回避できたが、行かずに解決するのはそれはそれで面倒。たまに思う。10年前にどこかで誰かが頑張っていたことなど今日、だれも意識すらしないし積み上げても人が変われば忘れ去られる。無に帰すことを思うと馬鹿馬鹿しく感じてしまう。

趣味の陶芸も教室が無くなって気落ちした。少し張りがなくなった。

仕事、家庭、趣味及び自分の時間。その三本柱が同時に複数揺らぐとしんどい。二本が不動で充実していれば一本の揺らぎはむしろ立て直そうとすべく闘争心が掻き立てられるぐらいなのだが。
隠居後は生活や教育に費えた後の老後貯金以外に仕事人生からは何が残るのだろう。定年後も仕事仲間と親睦を深めている例をあまり知らない。
子どもが巣だった後は何が残るのだろう。子どもはかわいいし、責任感はかなりの心の支えではあるが、それを頭の中で取り払うと何が残るのか全く自信がない。
陶土と釉薬が焼き固まってガラクタと化した植木鉢は不燃物として捨てられるかもわからない。もっと技術力のある人が手の届く値段で私の望むようなものを作ってくれていたら、私が失敗作を量産する必要もないとも思ってしまう。


たまに、全てを投げ出して旅に出たくなる。1日何十キロも歩いて、簡素なものを食べて、想定外のことの連続で自分には御せず、たいした生産性もない1日を流されるがままに送り、くたくたになって横になったら意識せずに寝入ってしまう。そのかわり、朝は意味もなく爽やかで元気だ。

全てを放り投げ出したい気分の時は何も大それた決断や行動をとらない方が良いのはわかっている。虚無感や徒労感の波は息を潜めてやり過ごすに限る。

愚痴りたいわけではなく、このぐらい倦怠感に苛まれている状態から何を契機にやる気が復活するのか、どのくらいの時間がかかるのかを振り替えれるようにしてみようと思った次第。