供養

三連休に祖父の13回忌の法要があったので実家に帰ってきた。


ところで、自分が死んで供養されたとして、死んだ自分はあげられているお経の意味が解るのだろうか。それとも音を聞くだけで死後の身には効用があるのか。


そもそもお経は現世の人に良く生きるためのすべや真理を説くものなのか。それとも既に人生に対してどうにもならなくなった故人に何かを諭すものなのか。


世の中にあれほど沢山の宗派は必要なのか。それぞれの宗派の教えは、先人、賢人がその時代ごとに悩み考え抜いて辿り着いた答えだ。盲目的に鵜呑みにするのではなく、ある事柄についてこの宗派ではこう考え、あの宗派ではこう捉えているという風に宗派横断的に考え方を学びたいものだ。他宗派では焼香の際、摘まんで額まで上げるとか、浄土真宗では上げないでよいとか、そんな違いはどうでも良い。


東北の祖父母の眠る集落の和尚は地域に根差している。誰を嫁にもらい、何に悩み、何に喜び、子をもうけ、孫に恵まれ、妻に先立たれ、そういう檀家の一人ひとりの人生を少しは知る。法事でも故人はあんな人やった、こんなことがあったと語ってくれる。お経を教えたり、相談に乗ったりして、檀家も和尚の人柄を知る。


自分を知る者に供養されたい。お互いに知りもしないのでは、お経を上げに来てもらっても、金の催促の声にしか聞こえんかも知れぬ。そうするのが社会的慣習だから常識人として法事を執り行って金を払っとけと。そういうことなのだろうか。


供養って何だろう。親戚が時間や金をかけて法事の為に集まってくれるのは嬉しい。しかし実際には義理や付き合いで参列したり、早く終わらんかと思っている人も多そうだ。果たしてどれだけの人が故人を偲び、想いを馳せているものか。自分なら、時間や場所を問わず、親戚や友人が時折、良い想い出として自分のことを思い返してくれるのが一番の供養だと思うのだが。


そんなことをお経の最中に考えていた。