大原の三千院や勝林院僧房群からも離れたところにぽつりと残る寂光院を訪ねた。そして歴史に明るい人からすれば何をいまさらというようなことにいちいち驚いている。史跡や歴史を知り、八百年前、九百年前のことが伝説でもなく実際にあったことに実感が湧いてきて神秘的な想いがする。
平家物語にゆかりのある寂光院は惨いことに2000年5月の放火によって本堂が全焼しており、再建された本堂に新しい地蔵尊があるだけで、厳密には12世紀の建礼門院存命当初の建造物などが残っているわけではない。けして境内は広くは無く、桜や庭園、書画などの見所に溢れた寺でもない。しかし建礼門院の不遇の生涯、平家の栄枯盛衰の歴史を知り、想いを膨らませて寺院を歩くと全く広がりのあるものになる。八百年前の歴史と相関させてこそ訪れ甲斐がある。海外からの観光客も多いのだから、彼らにも中国語や英語で是非この物語を知れるようにして寂光院の歴史世界を味わえるようにして欲しいものだ。
娘を天皇と結婚させ、やがて天皇の御子を生ませることで天皇の外祖となり権力を得ようとする平清盛。自らの権力基盤の強化のためにそれを受け入れる後白河天皇。そこから徳子こと建礼門院の人生は動いていく。
清盛の三女であった徳子は17歳にして、身分の低い武家から天皇に嫁がせるために、一旦、後白河上皇の養子という形がとられる。そしてその後、後白河上皇の息子である高倉天皇に嫁ぐ訳だから血は繋がってはいないとは言え、姉弟間結婚ということになる。五歳年下の高倉天皇は学問にも通じた賢皇の誉れ高かったそうだが後白河上皇の影響下では実権はなかったようである。やがて安徳天皇を生み、国母となる。しかし、その後、清盛は自らの影響力拡大のため高倉天皇を上皇にし、安徳天皇を即位させることで後白河上皇を排除せんと、クーデターを起こす。実父と義父が政治対立し始めたわけだ。
されが高倉天皇が病没し後白河上皇の院政復帰が確実になると、徳子を今度は後白河上皇の後宮に据える案が上がる。亡き夫の実父、自らの義父に再度嫁がせようというのだから政略の道具以外の何者でもない。
やがては源氏に都を追われ、実母、実子である安徳天皇が壇ノ浦で入水自殺し平家も潰えた。源氏に捕らえられ都に送られた建礼門院は31歳で出家し、以降平家の菩提を弔う為に寂光院で余生を送る。平家物語の最後は後白河上皇が寂光院に建礼門院を訪ねるところで幕が下りる。平家の盛衰を建礼門院が悲哀の中で洛北の山中で隠棲する様に集約させているわけだ。歴史から忘れ去られ、建礼門院の死すら正確な記録は残っていない。
事の顛末を後白河上皇に涙ながらに語り、後白河上皇もまた涙したと言う。最後まで政争の道具として扱った実父清盛とその実父と権力を争うも最後は庇護し情を見せた義父。それぞれにどんな想いを抱いたのだろう。
寂光院の山門の樹肌や門の葺きの屋根には他ではなかなか見ることができないほどミズゴケが瑞々しく生い茂る。