判断

2kmの避難指示が今や20kmになり、福島原子力発電所では最後の砦と言われていた格納容器も破損している。安全と伝えられ対応に当たっていた自衛隊は被曝し、怒りを顕にしている。検査漏れや不測の事態への備えの拙さが次々と露呈している東京電力。以前働いていた海外の会社の社長家族からは、しばらく日本を離れて社長宅に身を寄せるよう提案していただいている。米国に移住した従姉弟からは国外脱出するよう勧めているのに親が聞く耳を持たないとの嘆きのメールが寄せられる。


その一方で日曜日の京都では東での惨事をよそにホワイトデーのお返しを探す人で百貨店や菓子屋は大賑わい。東山花灯路も着物を着た観光客で混雑。東京ですら週が開けると多くの人は変わらぬように出勤している。


東京電力や政府に対して「最悪の事態」を想定して備えていないことを苦々しく思う一方、吾身を振り返れば一般市民はどうなんだろう。同じことではないのかね。仮に「最悪の事態」に万全に備えるならば預金を下ろし荷物をまとめて船なり飛行機なりで国外脱出する手配をしておくことなのではないか。あるいは関西に脱出することではないのか。「最悪の事態」となってからでは混乱に巻き込まれ恐らくは難しい。しかしそれがわかっていても現段階で、避難するために会社を休みますとは皆言えない。ビジネスを立て直すために皆が懸命なときに逃亡した人に事態が収束後に職が残ってるとは思えない。首都圏にいる家族も、店頭から電池が姿を無くした段階になって「あんたのところ電池余っている?」と連絡が来た。東京電力の対応に照らし合わせるならば「現状認識が甘い」「後手後手の対応」と言えなくもない。


誰もが根拠も確信もないのに、事態が収束するほうに賭けている。


客観的に命と仕事のどちらが大事かと聞かれれば、多くの人が命だと答えるだろう。しかし現実ではその言葉通りの行動ができない。仮に全てが最悪のシナリオを辿って命を失った場合、傍目から見たら奇妙なバイアスに捉われて瑣末なものを優先して命を失った不可思議な人達に映るのかもしれない。我先にと脱出を図ろうとした後に無事に収束したらかっこ悪いかもしれない。しかしそのように脱出した人だけが助かる状況下では、つまらん見栄やプライドで命を落とした阿呆にしか見えないかもしれない。


テレビに流れていた光景。津波が間近に迫っても、津波の方向を見ながら自転車を引きながら歩いている男性の姿が目に焼きついている。高台の上の人は懸命に「今すぐ逃げろ」「高台に避難しろ」と声をかけているが男性は反応しなかった。その後、男性がどうなったかはわからない。


最悪の事態における津波放射能汚染、高台は国外に相当するとしたら。。。。私達は茹でられている鍋の中の蛙なのだろうか。


自分とて、不安を煽る意図はない。買い溜めに走って被災者に物資が届かなくなるのも嫌だから敢えて普段以上に何かを買うつもりもない。この場に留まって普段通りに生活を送り、職場ではできる限りの震災後の対応に追われながら静かに事態を見守っている。皆がしている、こういった被災地域への配慮は「良い」ことだと思うが、それが「適切で正しい」のかわからなくなってきている。最悪の事態を想定した先手を打った行為とは明らかに矛盾する。


結局、「最悪の事態を想定した備え」など絵に描いた餅なのかもしれない。最悪の事態で誰もが正常な判断を下せることを前提にすること自体も非現実的だともいえる。いざとなれば皆で手をつないで騒がずに静かに最後のときを迎えるのが正しい心構えなのか。結局、非常事態で自分はまともに判断できないだろうということがわかった。