フェイスブックというもの

Facebookには単なる掲示板ぐらいな役割しか期待していないのだけれども、八兆円以上の時価総額をつけて上場する見通しなのは、皆何を期待しているのだろう。
ヨーロッパやフィリピンなどの友人は皆、数百人から千人近い友達を登録している。200人程度の登録数しかいない自分でも、活発な投稿をする友人がいると投稿メッセージで溢れかえり、数日前の投稿など遡れなくなる。発言がツイッターのように流れて行く。結局、つぶやきみたいな一言しかなくなるし、まとまった質のある情報を載せる場所にはならない。友人の何かの報告も自分がその前後数日にFacebookを覗かないと見過ごしてしまう。賞味期限二三日の情報が垂れ流されるところ。

  • わざわざ電話で話すほどでもない近況を互いに知れる。
  • 海外の友人との連絡ツール。
  • 誰かが転載してくるコネタを読んで暇潰し。
  • 誰がどんな反応するかを期待しながら何かを投稿。


これは活用できていない輩の典型だろうか。


Facebookの大きな収益源はやはり広告らしい。とはいっても売上は4000億円に満たない額で広告媒体としてだけなら8兆円の価値にはならないのでは。しかしFacebookにしろ、ブログにしろ、YouTubeにしろ、そこに出てくる広告をまともに読むことなどない。即座に広告を閉じるか器用に無視することに長けてしまっている。大体の人がそうではないだろうか。この手の広告がどれだけ有効かは正直わからない。主要広告主である自動車のGMは効果が見えないと判断して引き揚げた。


9億人にアクセス可能な大動脈としての評価なのかもしれないが載せるべき金を生むコンテンツが出てこなければ巨大なmixiに終わる気も。可能性は大きいのかもしれないのだけれども、中身の見えないとりあえず巨大な可能性という幻想。



ネット広告と言えば最近好きでないものに楽天Amazonの「この商品を買った人はほかにこんな商品にも興味があります」といった類いの閲覧履歴から関連分野を類推して商品を提示してくる広告がある。


将来の購買を予測しているのではなく、過去の購買時の選択肢をいつまでも突き付けてくるのでうんざりする。もう、それは買ったし似たようなものを幾つも要らないのだよ、と。


インターネットの素晴らしいところは馴染みの薄い分野の情報にも容易にアクセス出来ることなのだが、あの手の広告は知的好奇心の広がりを妨げる。しつこく出てくるのは「命名札」「ボタン電池」「伊藤久右衛門」。どれももう不要です。


興味のありそうなものを類推して提示するという設計思想は素晴らしいが、欠落点としては閲覧したものが自分が評価しているものとは限らないことだ。期待するものが見つからずに終わっても、その閲覧履歴から期待外れの類似品をいつまでも陳列されては興醒めだ。自分で良し悪しの評価を点けられるようになり、好評価品からの類推検索ボタンみたいなものがあって選択的に探せたら便利だ。それ以外の時は勝手に片寄らせないでほしい。