サーンチの仏教遺跡群はインド亜大陸を初めて統一した紀元前3世紀のマウルヤ朝三代国王アショーカ王が建立したとされる。言うなればインドにおける始皇帝のような存在だったわけか。仏教を広く庇護し普及に努めたアショーカ王の大規模な仏塔が残るサーンチは仏教における聖地に数えられ、世界遺産にもなっているそうな。
このアショーカ王とは二代目国王の幾人もの王子の一人で、先代国王の死後、多くの異母兄弟を殺して王位についたという。仏典では99人の異母兄弟を殺して王位を奪い、自分の意に従わない臣下500人を誅殺し、東岸の大国カリンガを征服してインド統一を果たした際にはカリンガの15万人の捕虜のうち10万人を虐殺し、その数倍を戦闘で殺したという。数字は仏典による誇張でしかないらしいが、カリンガ統一まではチャンダ・アショーカ(暴悪阿育)と呼ばれる暴君であったのは確からしい。
しかしカリンガを征服して以降、一転して法による統治を打ち出す。カリンガ征服戦争を通じて多くの優秀なバラモンやシャモンなどを殺めたことを悔いてであるとか、終わりのない殺戮に儚さを感じてだとか諸説言われている。いずれにしろ、がらりと変わったのは事実なようだ。そして従うべき法(ダルマ)として不殺生、正しい人間関係、父母に従順であること、礼儀正しくあること、バラモンやシャモンを尊敬し布施を怠らないこと、年長者を敬うこと、奴隷や貧民を正しく扱うこと、常に他者の立場を配慮することなどを各地で摩崖碑文などに刻んでいく。
仏教はインド亜大陸の統一者によって庇護されたことで爆発的に普及したものであるらしい。そしてヒンドゥー教の一部、あるいは派生支流の一つとして位置付けられながら現代までつながる。
しかしアショーカ王とは何だったのだろう。偏見と勝手な推察だが、兄弟を殺して王位を奪い、臣下を殺して権力を固め、隣国の兵や民を殺して絶大な富と領地を納め、暴力で欲しいものを全て得た後にいざそれを維持するという段階になって「法」だの「不殺生」だのを持ち出して聖人君主面を始めるというのはムシの良すぎる話なのではないだろうか。もし自分が征服されたカリンガの生き残りで親族を大勢殺されていたら、腹に据えかねることだろう。
カリンガでは二度反乱が起きた。宗教も肌の色も違う複雑多様なインド亜大陸諸民族を束ねるには共通する理念や宗教が必要であったのだろう。その為に仏教を施政の為に活用したという側面はあるはずだ。
アショーカ王の治世末期からは碑文などが見つからず、帝国内が乱れていた可能性が高いらしい。最初は利用していたものにしまいには取り込まれたのか、インド各地に8万4千ともいわれる多くの仏塔を建立し、富の多くを寺院に寄進した。それにより財政が悪化したこと、あるいは軍備が弱体化して外敵に抵抗できなくなったことを背景に初代統一王朝マウリヤ朝は三代アショーカ王の死後分裂していったらしい。たった三代で終わった王朝。
民の平和や法による治世を目指すならば、仏塔建立なんぞに富を注がずに安定した強固な支配体制作りに注力し続けるべきだったのではないか。仏教の教義に照らせば釈迦の遺骨の分納やモニュメント作りに富や民の労働をつぎ込むのは筋が違いやしないか。普請三昧よりも民の平和だろう。
仏教を庇護し布教した聖王というよりは、やりたい放題好きに振舞って死んだ歴史上の一人の支配者に映る。
ここの仏教彫刻は細緻で素晴らしい。個人の能力を超えた芸術や美術はそんな権力者の富と趣味嗜好で生み出されているのは否めない。古代から平等で民主的で諍いの無い世の中だったら世界文化遺産になるようなものは殆ど生まれなかったとしたら遺跡好きとしては複雑だ。