陶芸再開

2年振りに陶芸教室に通い出すことにした。思い通りにならず、無力感に苛まれて焦せる、あの必死になれる感覚が戻ってきた。


月に2回ほど、指導して頂ける先生が来られる日に不定期で開催されている。


陶芸教室は自分を含めて6名ほど。作りたい作品のデッサンを描いて、それを元に先生の助言を得ながら作りたいものを各自作るという自由度の高い教室。


先生は杉並区にご自身の窯をお持ちの60過ぎと思しき温和そうな方。山科に清水焼団地が移る前の時代に京都五条の茶碗坂近辺に住んでらしたそうな。先生に師事して修行されていたのだろうか。私も昔、上賀茂神社近くの窯の陶芸教室に1年半ほど通ってたという話なんかもしたら、共通の接点を見つけられて少しほっとした。


過去に焼いた作品の写真をお見せした。「へえ、一通りの技法はできるんだねえ。これなんて面白いね。だったらあんた、最初から自由に好きなのを作りなよ」と仰って頂いた。写りの良い写真でなく現物をみたらがっかりされそうだ。現物は粗が目立つ。


早速、轆轤で植木鉢を作ろうと思って下絵を描いていると、先生が覗き込まれて、轆轤じゃなく最初からもっと自由な造形で作ったら良いという。なんか技量を勘違いされている。半素人なのに。


「どこかで見たような作品ではなく、もっと自由な発想の何かを造ってみて私を愉しませてくれ」
「君程度の技量では轆轤で挽いても斬新な何かを作れるとは思えない」
「せめて自由成形ならダメ元で何か面白いものを造ってくれる可能性が少しはあるか」
何だか、勝手にそんなことを思われているように感じてしまった。背筋に冷たいものを感じる。


苦笑いしながら、取り敢えずは長いこと轆轤に触っていないので轆轤で何かを作ります、と伝えて轆轤を準備した。


土殺しに手間取り、芯出しに手間取り、作りたい作品のイメージに乏しいものだから轆轤を前にぼおっとしていると、先生が見かねて貸してごらんよと。


土を触ってすぐに、「あー、これ空気入ってしまっているね。空気が入っていると芯を出すのが難しくなるよ」と即断。恥ずかしい。土殺しからやり直して下さったのだが、まるで粘性流体を扱うように轆轤の上で土を伸ばし縮みさせる。体に染み付いた手の感触があるのだろうな。惚れ惚れする手技だった。


・造りたい形を明確にイメージしてから始める
・菊練りでしっかりと空気を出す
・回転時に手を土から急に離さない
・回転をあまり速くしない
・目ではなく指先の感覚に頼って造形する


家に帰って先生のことを調べると新日本工芸展での数度の外務省買上げや、日展へ15回以上の入選、さらには日本新工芸家連盟の審査員など、相当な陶芸家だということが判明。下手くそな作陶を見せたことに恥ずかしくなった。


しかし、こちらが上達した分だけさらに一歩先の助言も聞けるわけだ。有り難い。頑張ろう。


なんちゃってな小綺麗な作品だけではなく、先生が唸るような創造性のある作品を作れるようになりたい。思い通りにならない不自由さ、必死になる時間。そこに充実感を感じる。