オーストラリアの学校で毎日のように遊んでいた親友がいた。お互いの家が数百メートルの距離だったこともあり、週に3日はお互いの家を行き来していたかと思う。
我が家に来て、ファミコンの「突っ張り大相撲」や「マリオ」なんかをよくやった。当たり前のようにうちでカレーや和食やラーメンを食べていった。私も大きなプールのある友人宅によく遊びに行った。彼のパールビーチにある別荘についていったこともあった。英語をろくに話せない私は寡黙な印象だったそうだが、遊ぶのに支障はなかった。
そういえば、彼の家にはファッジという元気なジャックラッセルテリアがいたが、私たちが会わなくなって2年後に亡くなったそうだ。
クラスの全体写真を実家で発掘して携帯で撮っておいた。それを一緒にみながら、こいつライアンだよな。ジャスティンだろ、テイトだろ、この子はペネロピーだっけ、キムとはまだ繋がっているよ、先生はミズ・ダフィーだったっけ。。。お互いの断片的な情報が水面に投げ入れた小石のように波紋を広げるように記憶を呼び起こしていく。沈殿していた記憶があちらこちらから浮かび上がってくる。
英語の話せない日本人の子をそれなりに孤独に陥ることなく過ごさせてくれたのは、彼のような友人に恵まれたおかげと、男子の遊びがもっぱらスポーツなどで会話を多く必要しなかったからかもしれない。
友人はいたずらそうに笑う、愛嬌のあるお調子者だった。飛び抜けてスポーツや勉強ができたわけでもなく、私よりも背は低かった。底抜けに明るく、誰からも親しまれるキャラだった。
そういえば、友人はクラスで人気の女の子の後ろからふざけてスカートを降ろして、かなりコテンパンに怒られていたっけ。嫁さんの前でそれはあえて言わなかった。
ユダヤ教徒一家の子である友人は兄を追うようにユダヤ教の高校に進んだそうだ。12歳からギターを習い始め、DJやメジャーデビューしてアルバム3枚を出したバンドのギタリストもしていたとのこと。2年前に結婚した奥さん曰く、オーストラリアでは結構人気のバンドだったのだとか。
彼がミュージシャンとしてそこまで成功していたのは驚きだが、彼の天真爛漫でいたずら好きな性格はミュージシャンに違和感が無い。
28年ぶりに再会した4時間という短い時間だった。さすがにそれまでの空白を埋めるにはあまりにも短い時間だった。毎日のように会っても飽きないような関係にはやはり戻らない。お互いに抱えていることは小学生に比べてとても多いし、趣味や関心も広がった。
ざっくりというと、期待は裏切られなかった。気難しかったり、高飛車だったり、高慢ちきにはなっておらず、昔の素朴さというか無邪気さを残していた。それが少し嬉しい。
28年も前の記憶は朧げで、自分の思い込みなのか、後から写真を見て作り出した記憶なのかも曖昧。友人と私しか知らないような思い出を確かめ合って、ああ、確かに自分は28年前にオーストラリアに住んでいたのだな、と実感を得た。