悩み事 備忘録

自分が成長しているかどうかは悩みの質が向上しているかどうかでわかるのかもしれない。だからと言って悩みの質の良し悪しがわかっているわけでもないのだが。数年後に読み返すべく、現時点での悩みを書き記しておく。


全力で仕事をやり尽くしたという達成感のなさ
毎日2〜4時間睡眠で自分の理想のパン作りを追求しているシゲクニ屋55のオーナーの話などを読むと軽い後ろめたさを覚える。常に何事にも余力を残した暮らしをしている自覚がある。何もする気力も残さぬ程に仕事に打ち込まなければ、世に残るような何かは成せないのではないか。仕事で自分の名の残るような何かを成すことに強い意志を持っていない現状は意欲に欠けることなのか。


言い訳としては、仕事だけが自分の価値観を占めてはいないわけで、妻や子供や犬と向き合う時間、趣味の時間は人生を豊かにする上で重要であり、余力が残らないほどに仕事に打ち込んだら他の大切な何かをできなくなるとも思っている。


他を犠牲にしても仕事でこれは成し遂げたという誇りを持てること。


仕事にばかり没頭せずにあれもこれも充実させられたと満足できること。


どちらが人生において幸せで悔いが残らないのかは正直、わからない。しかし既に私は後者に賭けている。


むしろ悩みの本質は目の前のやろうと決めたことが仕事であれ、家族とのことであれ、趣味であれ、何であろうと全力を尽くしてないことではなかろうか。限られた時間配分の中でそれぞれの対象に全力を尽くしてないことへの自覚が悩みの本質かもしれない。寝落ちするような毎日、疲れて夜更かしする気も起きない毎日。そんな日々を送れていないことに後悔と後ろめたさがある。


専門性では無く汎用性を選んでしまっていること
既に友人知人の中には自分の名前でもって仕事をしていて雑誌やテレビで取り上げられる人が散見される。彼らと比べると、自分にはこれぞというものはない。そういうものを得るような働き方をしてこなかった。仕事以外のこととバランスをとりながら仕事に臨むという自分のスタンスを前提とした上で、汎用性を選んでしまっていることは正しいのか。汎用性の道を選ぶのならばがむしゃらに貪欲に働いて管理職や経営者の道を歩まないと先は広がらないのではないだろうか。


形に残る勉強をしていない
MBAを習得しただとか、米国会計士や内部監査人の資格を得ただとか、そういう履歴書に書けるような勉強はしていない。そういうことをコツコツと積み重ねている人もいる。仕事をしっかりとやった上でそういうことまで卒なくこなす人もいれば、仕事をかまけて履歴書に加筆できる項目をアンバランスに充実させている人も見る。自分としては何を達成したかの成果と経緯でもって能力の有無を主張していきたいと思っている。


しかしジョブセキュリティ、平易に言えば食いっぱぐれない為にもそういう資格取得などの履歴書上での体裁を整えることにも労力を使うべきなのかもしれない。

趣味にも投資は必要なのか
たとえば陶芸一つを取っても、単にその趣味に時間を費やせば良いというわけでもなく、適切な自前の道具を持ったり、自分の目指す陶肌の為に釉薬を自分で買って試してみるなどの投資は必要なのではないだろうか。成形しては潰してを繰り返したり、同じ形をひたすら大量に作ってみたり、自己満足を犠牲にして同じことを反復して繰り返すなども必要なのではないだろうか。陶芸における時間投資だ。正しい努力として。


自由に毎回、ことなるものを思いつきで作るというのではダメなのか。職業陶芸家になるわけでもないのだから限られた時間を反復練習に費やさずに作りたいものを心赴くままに作るべきなのか。せめてもう少しテーマを絞って繰り返し試作品を作るべきかもな。料理も同様だ。


継続が苦手。特に運動。
ジョギングやマラソンなどのストイックな運動が苦手だ。腹が出るに任せ、体が弛むに任せてきた。その上で食べたいものは食べる。


理屈の上では運動しないことを正当化する要素は何も無くて、これは単に自分の怠惰さでしかない。楽しくも無く苦しく興味の薄いことからはすぐに理屈を捏ねて逃げたがる。



幼い内から才能を見つけ育てる
息子も3歳になってしまった。世に名だたるプロの多くは幼少期から研鑽を積んでいる。適性があるかもわからずに何かの道を押し付けるべきではないと考えているけれども、何が好きかを見つけられるような機会を提供できているのだろうか。


何か習い事や体験経験をもっと与えるべきなのではないだろうか。