京都イケズは中華思想 そしてなぜ高円寺が好きか

高円寺の街の雰囲気が好きな理由が井上章一著「京都ぎらい」を読みながらわかってきた。ここには高円寺に生まれ育ったことを出自の良さとして自慢する人はいないし、芸人やらバンドマンやら作家といった肩書きや出自に頼らずに勝負しようとする駆け出しの人達を揺籃する空気がある。内容以上のプレミアムを乗せることがない割安な料理屋や呑み屋が溢れている。商店街に賑わいがあり大手チェーン店よりも一店一城の店主が切り盛りする店に溢れている。


たまたま親の仕事やなんかでそこに生まれ育っただとか、家柄だとか、本人の貢献や能力とは関係のない属性で優越感を誇示するしょうもない人が嫌いなのだな。


だから港区なんて属性に惹かれる人達が集まりそうだから港区は選択肢に入れたくなかった。仙川や千歳烏山あたりに家を探した際にも、道一つ越えて街区が変わるだけで調布市から世田谷区に変わるので土地や賃料の相場が上がるなどという話を聞いて心の底から阿呆らしいと思った。同じ学校に通いながら「うちは世田谷ナンバーだから」なんていうしょうもない世田谷イケズを言う父兄と子供のために表面付き合いをすることを考えると溜息が出る。


京都市に住んでいる間も、落ち着きがあるし通勤や生活に便利なので山科に住んだ。すぐ裏山には御陵疎水があり、九条山の散歩道にアクセスできる自然に恵まれた立地でありながら、三条京阪に自転車で10分程度で至極便利だった。


この山科という地は洛中の人間からは京都とはみなされず、刑務所があり犯罪が多発する京の雅が届かない荒んだ地に扱われる。確かに王将の社長が白昼に射殺されたが。


山科に住む3年間で京都洛中の人のしょうもない自己誇示や京都イケズを繰り返し体験しているので「よそもん」という立ち位置は自覚しているし、山科に住んだ時期は京都観光を3年間したと思っている。


カフェ巡りやら店の食べ比べやら寺巡りやら、その振る舞いからして住人ではなく観光客のそれだ。洛中で生まれ育った人だと馴染みや贔屓の店があってあちらの店、こちらの店と浮気しない。案外、京都に生まれ育った人は店も寺も知らないもんだ。そんなわけでそこらの京都育ちの人よりも店やなんかは詳しかったようだ。


話を元に戻すと、京都イケズをかましてくる人はあれはコンプレックスがあるのだろうな。自分は洛中の住まいで、あなたは東山を越えた僻地に住んでいる、ということをことさらに強調しようとする。「そやかて、山科なんかいったら東山が西のほうに見えてしまうやないの」なんて最高に「らしい」表現で愉快だ。


こちらからしたら、出自を自慢にするにしろ、摂家だ公家だというわけでもなく洛中育ちの単なる庶民というだけではないか。他に誇れる属性がないのかね。


京都イケズは日本における中華思想だ。家柄や生まれ育ちで優越感を誇示する人のその根底にあるのは不条理な既得権益への固執だ。洛中育ちの私の前で、洛外育ちのあなたが京都を語るな、と。港区に住んでいる自分に対して足立区に住んでいるあなたはもっと控えめに振舞うべきではないか。そう置き換えても良い。


ただし、京都は文化芸術に携わる人も多い。中身を伴った本来の正しい意味で京都らしい何某かを担っていて、それを自負している人がそれなりの割合でいるからしょうもない京都イケズをする人達がいても総体として京都への尊敬の念は揺るがない。


そう、京都イケズに通ずる中華思想選民思想と自己誇示をする東京人が一番タチが悪いのだよ。金で手に入れたモノやタワマンだので比較し合う空虚さ。


華やかな中心から距離を置いて、かつ中心地から遠すぎもしない絶妙で曖昧な辺境での生活を楽しむのが自分の性分とみた。