「ゴーストインザシェル」
22年前の名作アニメーションを最新技術で実写化した。
アニメーションは伝えたい要素を抽出し、無駄な情報を削ぎ落とした芸術表現なのだと改めて思った。同じ尺で実写にした結果、情報がうるさすぎて、展開に間や余韻がなさすぎて見た目をなぞっただけの似て非なるチンケなものになっていた。22年前に近未来を描いたものの、描かれた近未来であるはずの現在の表現技術が見事に敗北したというか。
「ゴースト」が全く感じられない作品になってしまっていた。目に見える物質しか感じられない表面的な映像集。
自我の存在の危うさ。記憶と人口記憶。
ゴミ収集車のおっさんのシーンは「自分の生き甲斐であり、最も大切なものであるはずの娘とその記憶」が人口的に付与された捏造記憶だと突きつけられた時に、おっさんの錯乱と恐怖と疑念と忿怒を通じて観客に自我とは何かを問いかける、そういう重要なシーンではなかったのか。それが単に記憶をいじられた狂った犯罪者のパニックとして描かれて画面が切り替わっていったのでとても残念だ。
小説「教団X」
又吉さんはじめ、読書好き芸人の幾人かが熱狂的に推薦していた本。
人が何かを意識として認識する以前に、該当する脳の部位は反応しているのだそうだ。
ベンジャミン・リベットという科学者による有名な実験です。その実験によると、人間は、何かをしようと意志を起こす時、実はその意志を起こすよりも前に、本人にもわからないところで、既に脳のその部位が反応してるというのです。どういうことでしょうか?つまり、指を動かそうとする意志よりも先に、その指を動かす役割になっている脳の神経回路が、すでに反応しているのです。その実験では、脳が指を動かそうと反応した0.35秒後に、意識、つまり「私」が指を動かそう、という意志をもつ。
つまり、意思決定は既に脳でなされていて、コンマ数秒ほど遅れて意識がそれを追認しているのが実態なのだと。そして意識が脳に作用することはないのだと。自分が意識して決定したことは、コンマ数秒前に脳が決定したことの知覚、追認に過ぎないのだそうだ。
意識上の自我は、脳が既に決定した何かを見せられている観客にすぎない。
これが事実だとしたら(最新科学では常識になりつつあるらしい)とんでもないことだ。「色即是空」が肯定され「我思うゆえ我あり」は否定される。主体としての自分は何なのかを考えさせられる本。
世の中も常識も良識も、自分がどう意識するか、認識するか次第だという考え方はその通りかもしれないが、悪しき方向に飛躍すると他人の命も気持ちも石ころほどの些末になりかねない。そして実は自分の意思判断ではなく、物質的な脳が方向づけていると考えるならば当事者意識や責任感は安易に薄れていくのかもしれない。
気まぐれのように人の命を摘み取りながら、今の自分の気まぐれも私の意思ではなく自分の脳が既に決定していたことなのか、自らに良心や共感力に乏しいのは脳がそのような反応をするからなのか、と教団の教祖は空虚で無感情な目をして思索に耽る。
教団Xの教祖を理解する一助になったのがたまたまその後に読んだこちら。
サイコパスは世間一般の良心や共感力に乏しいが相手の感情が理解できないわけではないらしい。そしてこのような場合には悲しいふりをしたら周囲の支持を得やすいなどと学ぶのだという。利用価値のあるなしで人を判断するのもサイコパスの特徴だとされる。
サイコパスは恐怖を感じにくく、合理的で感情に惑わされずに判断ができる。例えば昔の武将であれば自分の兄弟が率いる友軍を犠牲にすることで、より多くの損失を回避して勝利を得るなど冷徹な判断ができる。
「遺伝要因と環境要因が複雑に入り混じってサイコパスは生まれてくるが、環境を整えることで、サイコパス特性を抑えることは可能である」
「リスクに直面しても恐怖を感じない人間、共感性の低い人間、平気でうそをつける人間は様々な状況の中で必要とされます。」
興味深いのは遺伝性があるにも関わらず100人に1人というかなり高い割合でサイコパスは生まれ続けており、その反社会にも関わらずこれまでに淘汰されていないということ。戦乱や非常に困難な状況において無感情に冷静にことを運べるサイコパス気質は人類にとって有益な気質であるらしい。織田信長、ピョートル大帝、毛沢東、はてはマザーテレサもサイコパスと目されている。良く表出した場合には大局で物事を見て、瑣末や感情に惑わされないということか。
注意深く社会適合した勝組サイコパスも多く、経営者、弁護士、医者に割合としては多いそうな。ああ、あの人は典型的なサイコパスだったのだな、と職場で突如、凶暴性を露わにして周囲を引きつらせた人を思い出した。
ゴーストインザシェルで描かれる擬装された愛娘との触れ合いの捏造記憶。それを元に脳は判断に影響を受けるのだろうか。それとも、物質的な脳の判断反応には影響はなく、捏造記憶は意識上で浮かび上がるだけなのか。
私がこのブログで備忘録を書く際の言葉選びも、昨日、直前に逡巡して油淋鶏弁当ではなく辛味噌鶏弁当を買うことにしたのも、脳が既に反応し判断し終えていたことなのか。
妻を人生の伴侶に選んだことも、就職先に某社を選び転職先を現在の会社に選んだことも、重大な決断も些細な気まぐれも脳の化学反応的にコンマ数秒前に結論づいていたことなのか。
今この瞬間の様々な想像や考えも、全てにおいてコンマ数秒前に脳が反応し終わったことでしかないのか。自我ってなんなのだろうね。