揺れる宗教 富岡八幡宮と映画「スポットライト」

観光資源に恵まれ、経済的に非常に豊かだったとされる富岡八幡宮だが元宮司の当代宮司殺害事件以降、初詣の参拝客は8割ほども減ったとか。

 

そもそもの神道の性格上、格の高い神社の神職最高位にあった者が「私は死後においてもこの世に残り、怨霊となり、私の要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に祟り続けます」と言い残して肉親を殺害後に自死したものを祟りは迷信だの、事件と神社は切り離してこれまで通りご参拝下さいとは言い難いだろう。祓えば良いと気軽に言える通りならば最高神職の霊験だのも否定されるわけで。富岡八幡宮広報担当者が" 『祟り』などといったものも抑えこんでいけるものと考えております"と表明したそうだが、そもそも彼らは祟りを信じているのか、認識できるのか、祓えるのか。心の内はどうなのだろう。

 

 

映画「スポットライト」を観た。2002年以降吹き荒れたカトリック教会の司祭による専ら児童への性的虐待告発の震源地である、ボストン・グローブ新聞社の告発記事を題材にした映画だ。

 

CNNの調査曰くアメリカで"1950年から2002年にかけての52年間で、神父4450人が疑いがあると報道し、件数は約11000件に上ると報じた。これはその期間中における神父の人数11万人の内の4%である。約11000件中立証できたのは6700件、立証できなかったのは1000件、神父が死亡したなどの原因で調査不可能になってしまったものが3300件であった[12]。"とのこと。

 http://edition.cnn.com/2004/US/02/16/church.abuse/


以降ボストン大司教の辞職、数百人の司祭の解任、数々の刑事告訴や訴訟へと繋がり、影響はドイツ、イギリス、アイルランドなど多くの国々へと広がっていった。

 

映画で描かれているように教会のシステムが組織ぐるみで数々の罪を把握しながら黙殺あるいは隠蔽してきたそうな。

 

作品中に「教会は人が作り出したもので過ちもするしいつかは滅びる。信仰は違う。二つを区別しようと努力しているよ」といった趣旨のセリフが印象的だった。

 

 そういえばフィリピンもカトリック信者が多い国で、信仰を誇る人も多い。しかし一方では「毎週末に教会に通っているアピールする奴にはヘドが出る」「聖書を盲読するよりも自分の浅薄な振る舞いを顧みた方が良い」「あんな奴らが敬虔な信者とは思わない方が良い」と二人きりの時に私に吐き捨てた人を思い出す。彼は敬虔な信者としての義憤を吐いたのか、カトリックを信じてない者としての侮蔑だったのか、彼の立ち位置は今となってはわからない。

 

  • 人前で綺麗事ばかり言う人、聖人君主ヅラしている人というのは信用ならん。
  • 信仰は秘して行うものであって、他者にアピールするものでもそれを通じて自分の印象をなにがしか形成させるものでもない。

この二つは心に留めておきたいものだ。金に執着する者よりも人格的名声に執着する者が最も醜悪かもしれない。NGOや支援団体の理事や名誉職にはそういう人が集まりやすい。

 

子供達に対して尊敬できる人格者な親父であろうと振る舞いたくなるが、病理は同じだ。息子達よりは分別があり知恵も経験もあるけれども、親父とてモノグサで時にズルくて、間違うこともあり、気紛れで、偏見も持っているし約束を破ることもある。そこは開き直ってしまいたいし、子供達にもそう認識された上で多少の尊敬を辛うじて得られるようでありたい。取り敢えず間違った時には子供達に謝れるようでありたいし、白々しく綺麗事を述べるようにはなりたくないものだ。

 

人に認められることを求めず、ひっそりと堅実に自らが正しいと思うことを守っていくのが最も自らの強さを求められる生き方なのかもしれんわな。