思索。適度な諦観は「成熟」に思えてしまう。

自分の周囲の物事が正常に機能して当然だと期待をしすぎると不満が溜まる。電車が時間通りに来たら流石だな、と感心するぐらいでいるのが良いのだろう。


残念ながら世の中には天才的で万能な人はそうはおらず、福島原発はお手上げで汚染水は流さざるを得ない始末だし、他国では圧倒的なスピードで進んでいるにも関わらずワクチン接種は進まないし、こんな状況でもオリンピックは決行される前提で予算は積み上げられ続けている。もっと卑近なことならばなおさら不完全で不条理なことだらけ。時には善意に燃え、時には保身に走る、不完全で「良い人達」「普通な人達」が為すことに完璧はありえない。自分がすることの不完全さを棚に上げてはいけない。過度な期待もしないように、その一方ではそれでも少しづつ世の中は良い方向に進んでいることも忘れずに。


能力主義は能力の高低で差別が許される世界。階級、人種、性別、性的嗜好、容姿を始めあらゆる差別は無くなるべきという人達も能力差別は肯定しているというのは鋭い指摘だと思った。私が目にするのも「能力が高い」とされている側の人たちが「能力が低い」とされている側の人を切り捨てながら業績を改善し、それでもって評価を高めてさらなる報酬を得て行くこと。自分も受益者側に乗っかろうと努めていることになる。


「会社」なんて人はいない。「言われた通りにやっただけなのに」などと文句を言っても、その時に指示を出した人が異動なり転職していたら、誰も約束は果たしてなどくれない。責任を追及したい対象者すら「上から言われた通りにやっていただけ」な可能性が高い。指示に従うかどうかも含めて決定権は自分にあるし、指示に従うべきでない時に組織に縋り付かずに済むよう、いつでも転職できる人材市場での競争力や自活するアテは確保すべき。


役職が上の人間が品性や人格の上で優れているなどと思う必要はない。そうでない例は腐るほど見てきた。そして部下や若手からそう思われることも期待すべきでもない。ただ、それをお互いに露骨に表に出さずに上手くやるべきなのはそうなのだろう。立ち振る舞いの賢さと言うやつだ。この点で私は愚かさを指摘されることが多い。

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同僚は友人でないし、会社と従業員は家族ではない。「でもそう言ってたじゃないか」「あれは嘘なのか」。いや、建前か、支障のない時の「ごっこ遊び」だろう。本気にしてはいけないし、例外を期待値の基準に据えると不幸なことになる。


ある種の諦観と冷めた態度で折り合いをつけて日々を送ることが、「怒れる中年」に陥らずに済み、かつ周囲から見たら「冷静で温和で頼りになる人」だったりする。「周囲に期待しない人」が「他人のせいにしない人」に近い。

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過剰な依存、過剰な期待を避けるということは自立すること、自律することなのかもしれないとも思った今日この頃。