親になって思うこと。親に生んでもらったことへの感謝はない。子からも望まない。

親になって思うこと。

親に産んでもらったことに対してありがとうと思ったことはない。私がこれまで道を誤らず、大抵の困難は乗り越えられる力を得る環境を与えてくれた。世間の平均以上は与えてくれたと思う。私の親は私に対してすべきことをきちんと果たしてくれたのだな、偉いな、とは思っている。そうしない親もいることを大人になって知ったから。

感謝しているかはよくわからない。どちらかというと恩というか、借りというか。父が両家の親に仕送りをしていたり少し遠縁の親族の世話をしていたことは尊敬している。私は大した人間には育ってないかもしれないけれどもそれは子供である私の器量の問題で父と母は立派に子育てを成功させたと思う。

 

私は子供を2人作った。子供達に「産んでくれてありがとう」と感謝される理由は何もないと思う。

子供を作ることは親のエゴと欲求であって子供を作ることが社会的に偉いことだとか称賛されることだとは全く思わない。子供を作らない選択肢をしている人はある意味で責任感が強く良識があるとも思う。

「私達夫婦のところに産まれてくれてありがとう」という巷で聞くフレーズのほうが理解できるし「親の勝手で子供を作ったからには責任を果たさなきゃ」が実感だ。

 

「子供のためにも我慢しなければ」「子供のために頑張ろう」はある種の思考停止だとも思う。子供の存在を言い訳にしていろんなことを深く考えることをやめている。しかしそれで救われることも多い。頼られる弱い存在がそばにいてくれることは甘美だ。

 

子供達が無邪気な幼児のままでいてくれたら良いのになと思っている。大きくなるにつれて競争にさらされていく。彼らの何かが他の人のそれよりも劣ることを突きつけられる機会も増える。幼児期よりも容易には癒されない、傷つくことが増えていく。社会にはあちこちに不幸への落とし穴が潜んでいる。親がいつまでも壮健でいられず子を庇護し続けられない以上は子を自立させないといけない。困難を乗り越えていける力を私の子供達が得られることを願っているし、得られるようにする責任があると感じている。

 

子供をつくったことによって、その責任感によって、自分の存在価値やら生きる目的を考えることから逃げられているように思う。そういう意味で大いに救われている。「あなたの存在に意味や価値はあるのですか」と問われた時に「この子らにはまだ親としての私が必要だし、この子らを育て上げる責任が私にはある」と言えるということ。子供がいることであやふやな自分の存在価値に少なくとも一つだけ答えを得られる。

 

自分が親になってみて、子供が親に感謝することよりも親が子に感謝することの方が質的に遥かに重いのではないかと思う。

 

「自分の人生は幸せだった」と思える人とそうでない人はどちらの方が多いのだろうか。前者のほうが少ないと思っている。私の一連の考え方の根底にはこの前提がある。子供を作るということは多幸感に包まれて世を去れる人の方が少ないにも関わらず、そんな世の中に生を送り出すことだと思っている。

親は子供を作ることで幸せが増すこともある。そうならないこともある。子供達にとっては幸せな人生の方が割合として少ないかもしれないにも関わらず、親の幸福度が増す可能性に賭けて親は子供を作っているのだと、私は思っている。

 

私のような親は意識して早くから子離れが必要かもしれない。そんなことをつらつらと思った。