キリスト教は火縄銃と共に日本にもたらされたというのが象徴的に思える。厄災とより大きな厄災か、厄災と希望だったのか。
映画で提起される問いのひとつ。なぜ多くの国でキリスト教は迫害を受けながらも普及したのに対して日本では根付かなかったのか。
日本人にはキリスト教を理解できていたのかという西洋人視点からの問いも感じられる。
Rodrigues: I worry, they value these poor signs of faith more than faith itself. But how can we deny them?
信仰よりも信仰の徴であるロザリオやイコンをありがたがる隠れキリシタンを危惧しての宣教師の発言。私にはカトリック教会の装飾がその最たるものに思えるけれども。
井上という奉行が、宣教師も仏教や神道を正しく理解しようとすることなくキリスト教を押し付けるという主旨のことを言っていた。
奉行としても建前として踏み絵をしてくれるだけで構わないとも言う。踏み絵をするぐらいなら死を選ぶと言う狂信性を問題にしている。徒党を組んで体制に歯向うことなく静かに信仰を持つことは許容されていたが頑なさが弾圧へと繋がった、と。
宣教師の混乱と疑念と葛藤も描かれる。
Rodrigues: I pray but I am lost. Am I just praying to silence?
私は祈るが自分を見失った。私は沈黙(するだけの神)に対して祈っているのか。
Rodrigues: Surely God heard their prayers as they died. But did He hear their screams?
確かに神は人々の祈りを聞いただろうが、神は彼らの叫びも聞いたのか。
Eternal Damnation 永遠の天罰 なのか
Martyrdom 殉教 なのか
キリスト教の教義なるものが当然存在していなかったキリスト自身が生きていた時代、そのキリスト自身がロドリゲスの立場に置かれたならば教義に従うことを強いて死を選ばせるようなことをしただろうか。
結局は棄教した二人の宣教師だが信仰は内に秘めて捨てなかったようにも描かれる。
見る人によってはキリスト教を肯定的に描いていると言う人もいれば否定的に描いていると言う人もいる。観る者に明確な答えは出していない。人それぞれの疑問への答えを探しながら何度も観て作中に答えを探すような作品。
三浦綾子著「細川ガラシャ夫人」をまた読み直したく思った。有力大名細川忠興の正室として、明智光秀の娘として仏教にも神道の教えにもアクセスは容易だっただろう彼女を救ったのはキリスト教だった。なぜキリスト教だけが彼女を救えたのか。
私は信仰は人を救い、宗教は人を殺すと思っている。他人に働きかけ、信徒としての義務を互いに強要し始め、対人的性格を帯びると禍の種になる。私は私の信仰は人に語らないと決めている。
アンドリューガーフィールドはハクソーリッジと同じ年に演じたのか。すごい充実した年だな。