大きな本屋に行くと昔は心が躍った。ありとあらゆる分野、方向性に向かって専門性が枝葉を伸ばし、進化し続けていることが感じられたし世の中の飽きることのない広がりを感じられた。本屋は知識や技能を得る場所だった。
ここ最近、本屋に行って専門書の棚が並ぶ様を見ると重圧感を感じて気が滅入る。
「お前もその歳ならばコレとかアレとかソレとか当然知っているよな。」
「お前の歳ならばポテンシャルではなく実績で語ってくれ。」
自意識過剰なのかもしれないがそう思われる機会が増えた気がする。
そして大型書店の専門書の棚は私が如何に無知かを視覚的に突きつけてくるような存在になってしまった。本屋は知識を得る場所というよりも、如何に私がこれまでの10年、20年で知識や技能を得られてきていないかを自己認識させられる場になってしまった。
実際問題、コレもアレもソレも実践するか少なくとも知識として理解している人が世の中には少なからずいる。そしてそういう人が求められているし、そういう人がTVや雑誌や業界誌で発信をしている。
そしてお前はそちら側か、そうではない多くの凡庸な側なのかと問いかけられる。きつい。凡庸な側だから。1時間早く仕事が終わったら他の何かに1時間取り組むよりも1時間早く帰ることを良しとするような生き方をしてきたので毎日の差は微量だがその差が複利で20年も積み上がれば大きな差となる。
たまたま人よりも得意だったから心底好きでもなかったことを生業にしてきたけれども、それで通用するレベルは知れている。騙し騙しの付け焼き刃で通用しない壁が年々厚みを増しているといったところか。
40代を過ぎるとそれまでに何を成してきたかに大きな差が出てくる。期待値で見られるとしてもこれまでの実績を元にその延長上の期待値を測られる。そして老いも学習スピードの低下も感じ始める。
男子フィギュアスケート界の天才、羽生結弦さんが数日前にTVで荒川静香さんや高橋大輔さんら先輩との会談で「努力は報われなかった」と吐露していた。それ以上はできないというほど努力をしてきたからこそ言えるセリフだと思う。さらに努力をすると疲労骨折をしたり身体を損ねて演技に支障がでる限界点まで達しているのだと思う。そしてネイサンチェンが容赦なくアクセル以外の4回転ジャンプを飛びまくり、鍵山さんも世代交代を感じさせる躍進。
51歳の羽生善治九段が29年間続けてきた順位戦A級から陥落した。永世7冠、タイトル通算99期という訳のわからん将棋史の天才だがそんな羽生さんですら、というのがショックだった。そして藤井竜王が羽生さんを上回る史上最年少での5冠到達。
道を極めた人達が時代の移り変わりにゆっくりと置いていかれつつある様を見ながら、何の道も極められておらず、そもそもどの道を歩んでいるのかも無自覚で燻っている自分としてはプールの底で水圧に息苦しくなりながら水面を仰ぎ見ているような気分。
別に私などに道を極めることは期待されてなどいないのはわかっている。流石にそこまで勘違いはしていない。
道を極めた天才が努力も惜しまず取り組み続けても20代、50代で徐々に一線から退くことを強いられている厳しい世の中。私は遥かにぬるい環境にいるのだろうけれどもそのぬるい環境でも半端な私など当然のように努力し続けないといけないし、努力しても埋没していく可能性の高さを考えると人生は楽ではないのだなと思う。
努力しんどい、楽に怠けて生きたいけれども世の中は厳しいな。あーしんどい。もっと無責任に気楽に行きたいな。そんな泣き言をダラダラと長く書いてみただけの話。