廃鶏を屠殺して命をいただく。負荷の不可視化を考える。

石巻で食育のイベントに参加させてもらった。

 

玉子を産む数が減ってきた鶏は生産性の低下を理由に廃棄され若い雌に入れ替えられる。「玉子を産まないメスに価値は無い」と声に出すこともなく黙々と処分される。

 

鶏たちは狭い鶏舎に歩くこともままならない空間に詰め込まれ、互いにつつかれ、ストレスから羽毛が抜けた状態だったそうだ。ここに来た際にはうまく歩くことすらできなかった鶏たち。

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それがこの食育のイベントの開催日までの1ヶ月の放牧の間に毛が生え、走り回り、跳び上がるまでになった。

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そうして体力、気力を取り戻した彼女らは玉子も産むようになっていく。
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甲斐犬の猟犬が見守っているから全くの野放しでも鶏たちは安全。
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しかし鶏舎から鶏を救い出して寿命を全うさせるのが目的ではない。子供達に屠殺を経験させ、食卓に並ぶ焼鳥が、唐揚げがどのようにして来るのかを学んでもらう。「命をいただく」ことを知ってもらうのが趣旨だ。撮影スタッフに加えて東京のとあるフレンチレストランの厨房スタッフ15人、仙台の飲食店関係者も10人近く参加している。

 

千枚通しのような先の尖った金属を鶏冠の後ろから打ち込んで脳を壊す。脳死させる。

しかし首を切っても走るぐらいなのでなかなか死なない。

 

足掻き、痙攣し、肉体が硬直し、体温が冷めていく様を、命が奪われていく様を子供達に経験してもらう。若いシェフ達は何人かがショックで泣き出していた。
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まだ体に温もりがあるうちに羽をむしる。
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丁寧にむしられた鶏はなんとも美しかった。

 

そこからバーナーで産毛を焼き、喉を切って食道を剥がして結び、餌袋を破らないように外す。切れ目を入れた肛門から内臓と骨を繋ぐ筋膜を剥がし、内臓をごっそりと取り出す。

解説してもらいながら心臓、胆嚢、腸、肝臓などに解体していく。中からはキンカンと呼ばれる大小の黄身の塊が沢山出てくる。玉子になるはずの部位だ。

そこからはレストランのシェフたちが手際よく肉の部位を解体していく。肉担当の料理人達は普段は鴨の解体をすることが多いそうで、手際よく関節の間にナイフを入れ、腱や筋を切ってバラしていく。
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廃鶏の肉なので正直に言うと固い。柔らかい肉とはどのようにして取れるのか、だ。

 

ストレスで禿げて足腰も弱った廃鶏たちに資本主義とは生産性向上のために不都合を高度に不可視化していくこと、負荷を分離して集中化させていくことだということを思い出した。

 

この場合、安く鶏肉や玉子を食べられるようにするための負荷を最も引き受けているのは鶏自身だ。健康や喜びからは程遠い狭い環境でストレスに禿げながら玉子を産み続け、まだ寿命は長く残っているのに産む量が減ってきたら廃鶏として処分=殺される。次の負荷の担い手は精肉工場の人達だろう。脳を壊してもなかなか死なずのたうち回る阿鼻叫喚な屠殺の瞬間も、腹を裂いて臓器を解体して肉を分けていく大変な作業も技能を持ったそのような精肉工場の人達にすべて処理してもらう。

 

スーパーに並ぶのは血もほとんど出ない、鶏の原型を想像するのも困難になった綺麗な肉片だ。楽なことこの上ない。それが手羽元なら100g68円などという安い値段で売られている。

 

屠殺の過程で起こる罪悪感や感謝や面倒臭さも、時間労力的な負荷も全て精肉工場に集約されている。消費者は手軽に一番楽な状態から金だけ払って消費できる。そのような機能分離と集約、不可視化が最大化されるように発展し続ける仕組みが資本主義。

 

私はだからといって翌日から

自分で鶏を買って屠殺することも

ベジタリアンになることも

自然放牧された鶏しか買わないこともしない。

資本主義批判を友人知人に説き始めることもしない。

今まで通りスーパーで今日の特売は何かを参考にすぐ調理できる肉片を買って家で食べるのだろう。ただ、これまで以上に自覚的に何を買ってそれはどのようにして届いたのかを想像できるようにはなった。

 

鶏肉の価格は安すぎるとも思う。日本で1/3近くの食材が無駄になっていることなども考えるともう少し不便で高価で負荷の皺寄せが分散されていても良いように思う。最適な資本主義化の度合いともいうべきものがあるのかもしれない。ありがたいものをありがたく感じられるようでありたいと切に願う。