認めたくない事実として、自分のこれまでの人生には競争が染み付いているのだと思う。
私は自分自身をバランス派だと思っていたし、野心に溢れて大きな役職や仕事を取りに行く人達とは遠い人間だと思っていた。趣味や家庭を重視していると思っていた。ノルマを達成したならば、さらに成果の上積みと高評価を狙うよりもさっさと帰って趣味に時間を使う。なんなら定時よりも早く仕事が終わればサボるし、その為に早く仕事を終わらせようと頑張るタイプだ。
相対的に確かにそんな傾向はあると私を知る同僚は同意するかもしれない。しかし絶対的にどっぷり競争的なのだと思う。かなり競争的な母集団にこれまで混ざっていたのだと思う。
なぜこんなことを書くかというと、子供たちが小学校に上がり年を重ねるごとに競争と優劣をつけられる機会が増えてきた。頭では、成績がどうであれ心身共に健康ならば良いだとか、親の期待値を押し付けてはいけないなどと、そう思うべきだと思っている。しかしテストの結果が芳しくなかったり、サッカーチームで平均よりも拙かったりするとモヤモヤとしてどうしたら少なくとも平均以上に上達させられるかを考え始めてしまう。テストで良い点を取って帰ると嬉しいというよりもホッとしていることに気づく。
「下手でも楽しむ」や「好きだけれどもいつまでたっても下手」、「本人はそれで良い」をあるがままに受け入れられないことに気づいた。
やることは何であれ、やるからには平均以上に習得したり秀でていないといけないという誰からも求められていない脅迫概念に近い硬直的思考に囚われている。
作陶も「下手な横好き」で良いはずだし、わたしの轆轤技術も素人に毛の生えた程度で本業陶芸作家には遥かに及ばないのはわかっている。その一方では褒められたり作品を1万円や2万円で買ってくれた人が何人もいたりして、自分の基準でそれなりに上達して平均以上の趣味の作陶家になれたと思っている。ようやく趣味は陶芸ですと言って恥ずかしさを感じずに言えるようになった。
それなりに時間をかけて取組むならば、その分野で相応に秀でないといけない。勝手にそう思い込んでいるようで、息子たちがそうでないことがあると心がざわめく。
常に評価され、選別されてきたからかもしれない。趣味であっても、時間を掛けて何かに取り組んでいるならば上達していないとつまらないやつと思われるような空気感があったように思う。
自分自身が常に競争にさらされてきて、受験や就職、仕事においてもそれなりに負けよりも勝ち越してこなかったら今の境遇には至らなかったと思っているようだ。そうでなかったとしても不幸せになるとは限らないのに。