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桜と写真

思索

生憎の曇天だった。これが澄みきった青空ならばどんなにか桜が映えることだろう。逆光気味の透過光が美しいのだから。


曇り空の中、毘沙門堂平安神宮、将軍塚、広沢池、佐野藤右衛門邸を訪れてまわる。白んだ空を背景に白い桜は全く冴えない。佐野邸を出る頃には耐えきれなくなった空から重たく雨粒が落ち始めた。それは車に載った直後に叩きつける激しさに変わった。


満開を過ぎ、風に散り始めた桜は叩きつける雨粒に耐えられるはずもなく、一斉に枝から放たれる。しかしどんなに雨脚が強かろうと即座に地面に叩きつけられるわけではないらしく、雨粒をすり抜けるように舞う個々の花びらが集まって、見えなかった風の対流を可視化してくれる。


桜の大樹の下を車でくぐる度に横殴りに浴びせられる桜の波に、嫁さんと二人で車内で歓声を上げる。前方の路上には花びらがつむじ風で渦巻く。


こりゃあ良い。たった十日ほどの桜の開花期間中の最期の一日だけの光景。〆には春雷桜吹雪。雨の興もなかなかのもんだ。いつの間にか散った桜樹を後日見かけるよりも、散る瞬間に立ち会えて、ああ、これで桜も終わりだなと思えるのも気持ちの切り替えが楽だ。


いつの間にか作業のようにどこかに行く際には写真機を持っていき、シャッターを切るようになっている。なんで肉眼で景観を楽しまないのかと非難されるのには慣れた。写真を見ればその撮影前後を芋蔓式に思い出すことができる。妻よりも昔どこそこへ行って何をしたということを覚えていたりする。それも写真を度々見返すことでより多く昔の善き思い出を反芻できているからだと思っている。いや、思っていた。


振り返ってみるに、記憶の中にある最も綺麗な桜景はどれも雨や夜で写真を撮っていないものばかり。湘南台公園から山道を下り、通り雨を避けて神社の軒下から二人で腰をかけて眺めた桜吹雪。いつぞやの夜の鶴岡八幡宮の水面に映る桜。写真なぞ見なくとも心に描けるような景色。そうやって刻み込まれるものはファインダー越しに眺めていては得られないようにも思う。


時折、写真なんてものが随分と余計でつまらないものに思える。