朝顔座禅

久々に友人のお寺の朝の座禅会にお邪魔した。少しばかり早く着いて苔庭を掃き、散水する。苔の上には蝉の亡骸が幾匹も転がっていた。昨日今日のものではなく、乾燥しきってばらばらと部品のように壊れ散っていく。


お墓の脇に咲く朝顔をとるのについていった。パチパチと幾輪かを剪定鋏で切ったものを手渡され、適当に器を選んで活けてみいという。


活け花のたしなみは全くない。他に客がくるかもしれないのに、あまりに不細工だと申し訳ないので困ったが好きにさせてもらった。



棚には無数に花入れが並んでいた。どんな花にも対応できそうな多彩多様な器。焼き締めの花入れも惹かれたが、瓢箪が気になって手にとった。丸く太い瓢箪の曲線に沿うように竹で編み込んであり、ところどころ煤けてやたら渋い。こんなん、うちにも是非とも欲しい。


文字どおり投げ入れた感じの粗末なもんにしかならんかったが、どう適当にしようが自然の造形はさまになる。程好い薄暗さの室内によこからの光を透過して綺麗。



寺のこの光の柔らかさは我が家を薄暗くしたものとはどうしても違う。同じにはならない。ワックスのかかった床とやわらかな畳でもまた違う。薄暗さが肯定的に捉えられるというか、薄暗くあるべきだと思わせる空間。


やはり寺の空気感は良いな。