古都フエからダナンへはベトナムを南北に縦断する列車に乗ってみることにした。
事前にインターネットで予約支払い済みで8USDほど。タクシーに比べて6分の1だ。
9:34分発のダナン終点SE19号。その他の列車はホーチミンまで南下していくのに対し、これだとダナンが終点なので寝過ごしても安心だ。
乗る手続きがどのようなものかもわからないので30分近く前に駅舎に着いた。しばらく待っていると、「障害物があった為、到着は10:00に遅延します」と放送があった。
ハノイから688km、サイゴン、今の呼称でいうところのホーチミンまで1041km。サイゴンからホーチミンまで45時間以上かかるそうな。時速300km/hで走る高速鉄道を南北に通す計画があるらしいが、ハノイとホーチミンの両側から作っていけば早いものを、何故か計画はハノイから一方行にホーチミンまで敷いていくそうで、完成は2050年だとか。
色褪せて簡素な駅長室のような部屋は味わいがある。
そんなこんなで最終的に列車の到着は10:10だった。まあ、想定内だ。のんびり行こう。
紫に青のなかなかエキセントリックな配色の列車だった。
エアコンの効いた2等客席という話だったが、駅員さんに案内されて充てがわれたのは寝台車両の最下段。反対側ではオバチャンが昼寝をしていた。薄眼を開けてこちらに一目くれ、めんどくさそうにまた瞼を閉じた。
誰かが寝ていたようで、シーツは乱れていたが汚くはない。エアコンも多少効いており、カビくささもない。枕を使うのは気が引けたが、寝転がってダナンまでの道中を寛げるのは悪くない。窓際には赤い造花の入った花瓶が置かれていた。一目見て安物とわかるような造花はルーマニアやブルガリア、ウクライナを思い出させる。何故か、共産主義の国々は枯れることのない陳腐な造花で飾るのが好きだ。
列車はゆっくりと走り始めた。手を伸ばせば何かに届きそうな距離感で家屋が迫っている中を進む。
左手に田園風景と海を眺めながら速度を上げていく。最高速度はたった時速80kmしか出ないとフエの運転手さんは言っていた。それでも十分な速さだとは思う。フエからダナンまでおよそ80kmの距離を走るので平均速度は26km/h強か。そう考えると平坦な道をロードバイクなどのスポーツ型自転車で走るのと変わらない速度ではある。
ごろりと横になると、最上段でごそごそと人の動きがあり、足がベッドから飛び出してきた。寝台車は三段式だった。最上段には左右ともに若者が乗っていた。最上段は高さが60cmほどしかなく、座ることもままならない。上は暑いらしく、エアコンの通気口にしきりに足をかざす。そんなことされたら、足の臭いが直接こちらに。。。来ない。臭さは嗅ぎとれなかったので良しとしよう。
列車が止まった。10分ほど停車してから再び動き出すと、ゆっくり、ゆっくりと山の上へと登り出した。車でダナンからフエまで向かう際にはいくつものトンネルを潜り抜けた。列車はその山の上を行く。
車窓からの眺め全てが山腹の緑となったり、尾根へと出れば水平線を一望したり。絶景だ。
この国でかつてアメリカと中ソの代理戦争が南北ベトナムで激しく行われたことなど、想像し難い。成長の早い蔦やヤシが50年前の傷跡をすっかり隠してしまった。戦争の傷跡は建物の壁跡など人工物にしか残っているようには見えない。人工物すらも熱帯の植物は経年変化を推し進め、痕跡は消えていく。
さらに遡れば、ベトナム戦争の20年ほど前には日本軍がヒルに血を吸われ、蚊にくわれ、病と飢餓に倒れながら東南アジアのあちこちを行軍した。祖父はビルマ戦線へと出向いた。兵站輸送だったおかげで生還した。
じっと座っているだけで汗を掻き、体力を消耗する環境で何十キロの装備を担いで行軍した。馬鹿らしい。争った挙句何を失い何を得たのか。茹だる暑さの中、テラス席で扇風機の風を浴びながらビールを飲む。日が暮れたら砂浜に海水に浸かりに行く。そんな楽しみ方で過ごすべき場だ。
日韓で政治家が勇ましいことをお互い言い合ってるようだが、何十キロの荷物を担がせて半日登らせた山の上で会談をさせたらいい。冷房の効いた快適な部屋で上げる気焔など政治パフォーマンスでしかない。ボクシングを観戦しているかのように「もっとやれやれ」と煽る人達も、自分らが当事者となって戦地に出向き殺し合い、自らの家族や友人を失う覚悟など無かろうに。想像力の欠如。
3時間弱でダナンの街並みに入っていくと最上段にいた若い男が下に降りてきた。とても綺麗な発音の英語で「ここに座ってもいいか」と私に聞いてきた。さらに最下段のオバチャンともベトナム語で雑談を始めた。2つのベッドの上で見知らぬ3組が列車に揺られていく。不思議な穏やかな空間と時間だった。
ダナン到着。いざ、タクシーを捕まえてホイアンへ。列車旅は快適でかなり楽しめた。