「啓定」と漢字で書く、カイディーン廟はフエ市街から10kmほど。ベトナム阮王朝の十二代帝が建てた廟だという。度々洪水に襲われる平地を避け、山を背にし川を前にした風水の点で最適な西の地に造られた。
その当時、インドシナはフランスの支配下であり、フランスを排除しようと奮起した第十一代帝が廃位されて擁立された若い啓定帝に実権はなく全くの傀儡と化していたそうな。
そんな帝がしたことといえば民に追加30%の重税を課して廟を造営すること。フランスの装飾品を莫大な金額で買い求めたり。そんなフランスかぶれの飼われるがままに我儘を尽くした帝をフエの人々は今でも嫌っているのだと運転手さんは教えてくれた。
侍るのは石の家来だけ。
若いな。在位は1916年から1925年までの9年間と短い。結核で40歳で亡くなった。世間も知らず、自由もなく。本人に悪気はなく、時代の流れのどうにもならなさを嘆いていたのかもしれない。せめてもの慰めが在位9年に対して完成まで12年を要したという自らの廟の造営とは暗い人生とも言える。帝であるうちからひたすら自分の墓を作り続け、しかも完成を見ることなく死んだ。
グエン朝の装飾は砕かれた陶器が散りばめられているモザイク様式でこれまで見たことのないものだった。
これが中国や韓国ならば傷ひとつない大きな作品をはめ込んでいくのだろうが、ここでは染付や赤絵などの色彩系統の似た陶器の破片を使ってモザイク状に装飾している。
複数焼いた後に最も出来の良い品を選出していくような金も手間もかかる方法を取る余裕がなかったのか。それとも強烈な陽射しや風雨に晒されるベトナムでは修繕のしやすさ、美しい状態の維持しやすさの結果、合理性から辿り着いた美の様式が陶片モザイクなのか。
もし、意匠の選択に帝自身が深く関与していたのだとしたら、なかなか芸術に造詣の深い帝だったのかもしれない。
カイディーン帝をもっと知りたい。題材にした小説などがあれば良いのだがな。
フランスで鋳造してもらったという金箔押しの銅像の下で本人の亡骸は眠る。
亡き後に偉業を偲んで後継の手で造営されたわけではなく、さほど国の為に成果を出してもいないのに生前から自分の偉業を偲ばせる為に作り始めたわけだ。
ホーチミンの批判の槍玉に挙げられていたぐらいだから、息子がフランスからの独立の為に走り回るなどしていなかったら、この墓は社会主義国家の元で暴かれていたかもしれない。