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コクリコ坂から

終始ノスタルジーに包まれた青春恋愛版「三丁目の夕日」あるいは「耳を澄ませば」に似た印象。1960年代にも数々の時代の負の側面があったのだろうが、懐古的で肯定的なものだけが画面には映し出される。嫌な記憶は忘れやすく過去は美化しがちだけれどもそれがあながち悪いものだとは思わない。その象徴的に抽出された昔の「よきもの」の中には残すべきものが多いと基本的には考えているから。


「安っぽいメロドラマ」と劇中でセリフがあるぐらいメロドラマな展開なのだが、最後まで爽やかさは変わらない。誰もが純粋で残酷だった学生時代とあの頃の根拠のない志を思い起こさせてくれるよう。古いが立派な洋館の建て壊しへの反対。重層的で魔窟のような寮。最近訪ねた駒井邸や長楽館、外から見た京都大学吉田寮熊野寮を思い起こさせる。物語に登場する題材も好きだ。


監督の宮崎吾朗にも興味がある。最近、森元首相の息子が死んだ。森元首相が偉大な父だとは思わないが政治家として絶大な力を持っていたのは事実なようで、同じ政治家の道を歩んだ息子にとって常にのしかかる存在だったらしい。息子は酒に溺れ、飲酒運転で政治家生命を断たれてからはさらに不養生が進んで42歳の若さで多臓器不全で逝った。父の存在が重荷だったと周囲から同情が寄せられていた。宮崎吾朗の心中はどうだろうか。父が宮崎駿であることからは逃れようがない。ごく幼少期には父の描く作品の世界観を素直に楽しんだかもしれないがそれも短い間で、自我が確立されてからはジャパニメーションの世界で神格化された父を意識しながら生きる年数のほうが遙かに長い。もう死ぬまで意識するだろう。


宮崎吾朗は何かの雑誌のインタビューで父と比べられることに苦しんでいると吐露していた。反発心もあると。また、ファンタジーはもうやらないといっていた。ファンタジーは日本ではもう表現し尽くされていてそこに新たに自分が創造できるものは無いと。コクリコ坂で伝えたいことは「純粋な感情や懸命さを大事にする」といったことなのかと思った。彼の前作「ゲド戦記」は父と同じ路線を試みたような中途半端さがあった。今作は彼の世代、彼の感性によりそぐうものなのかもしれない。だとしたら今後が楽しみだ。


興行的に成功するのかはわからないけれども、こういう作品をもっと見たい。実写のドラマでは同じ役者が素知らぬ顔をして他の作品やCMで出ていて違和感を感じるが、アニメの登場人物はその作品の中だけに閉じ込められた唯一無二の存在だ。アニメであること自体がファンタジーだとも思う。宮崎駿の息子だというだけで最初から高い下駄を履いているが、「借り暮らしのアリエッティ」の米林宏昌にも作品を作り続けてほしい。彼の作品の人物の動きの躍動感や表情の細やかさは素晴らしかったと思う。ハウル、ゲド、ポニョ、アリエッティ、コクリコ坂と原作のアニメ化が続いており、しばらくオリジナル作品を見ていない。やがては宮崎駿が脚本を用意して若手育成のために撮らせる借り物の物語ではなく、独自なものを観てみたい。