何か子供達へのお土産を買えないものかと豫園に来た。もう19時だが店は21時頃まで開いているという。
豫園に前回来たのは何年ぶりだろう。記憶を遡ってみると12年近くも前になる。私の海外出張に妻が遊びでついて来るというパターンが多かったが、その時は珍しく妻の上海出張に私が遊びで付いていった。当時はまだ結婚しておらず、妻以前の元彼女だ。
確か、12月のクリスマス前後だった。その頃、関西で出会った、「小芸術家」という国家称号を持つ中国の少数民族を題材に多くの油彩を描く中国人の友人がいた。腰まで届く黒髪が綺麗な人で、少したどたどしい日本語に可愛らしさのある一周りほど年上の人だった。その友人は当時、関西から上海に帰国していて、上海のとある大学で美術の准教授をしていたので声をかけて豫園を妻と案内してもらった。
随分立派な鯉がたくさん泳いでいた。当時も南翔小籠包は健在で名所だった。もう記憶は断片的でしかないが、その時はまだ結婚していない妻に対しても友人が優しくてなんだか嬉しかったのを覚えている。
出張が終わると妻は仕事で日本に帰国し、私は12月25日まで画家友人の家に転がり込んだ。なぜそんな流れになったのかは覚えていないが、恐らく上海のホテルは高いから居間でよければ寝ていいよ、と提案してくれたのだと思う。
友人は某大学の敷地内にある教職員社宅のようなところに住んでいた。4階建ほどで建物には准教授、講師ばかり。大学の別の敷地内には学生寮も建ち並んでいた。
その当時はまだ上海の若者は化粧っけが無く、服も随分とダサかった。その中で日式の洗練された化粧をし、ケバくない落ち着きのある服を着こなし、ハイヒールの友人は学生から特別視されていたそうだ。学生からの質問の半分は美術に関わるもので、残り半分はどこでその服を買ったとか、どこで化粧の仕方を学んだとかだったらしい。
その晩は12月24日、クリスマスだった。19時ごろに友人と近所の大衆食堂で汁そばと水餃子を食べ、コンビニでジュースを買って友人のアパートに戻った。それから21時ぐらいまで雑談して時間を過ごした。内容はというと、日本の男は女性を褒めないだとか、好意を形にしないとか、優しさと優柔不断を履き違えているだとか、専らお叱りの言葉を浴びせかけながら私が苦笑いしながら普洱茶を飲むというものだった。一見、とてもしっかりしているけれど、あなたもそんなじゃ、彼女に逃げられちゃうよ、フラれても泣きつきに来ないでね、と言われた。
それからの展開が面白かったのだが、21時を過ぎた頃から断続的に来客が来た。友人は居間に私がいるので玄関で対応するに留めていたが、誰かが訪ねては帰り、また誰かが訪ねて来る。その度に花束やら贈物と思しき箱が居間に運び込まれる。そして居間が随分と花束で埋まり、最後には「うちにはもう花瓶がないよ」と困ってしまった。
学園のマドンナか、と驚嘆した。友人曰く、クリスマスの贈物なのだという。しかし愛の告白などではなく学生や講師からで学生は良い成績が欲しいから、講師は大学での准教授の籍が欲しくて友人の推薦や支持が欲しいからだという。随分と中国らしいな、と強く思ったことを覚えている。でも今にして思えば融通を図って欲しいという中国の慣習を隠れ蓑にした好意な花束が紛れていたかもな。
友人は今も元気にしているだろうか。日本人男性の不甲斐なさをダメ出しし続けた彼女はその後、日本人男性と結婚した。あの文句の数々は煮え切らない相手への文句だったのだろうか。私は彼女の警告通り、しばらくして当時付き合っていた妻にフラれた。フラれて愚痴を言いに訪ねていたら友人彼女は少し嬉しそうに「だから言ったじゃない。もっとあなたは。。。」と意地悪なことを言い続けながら暖かく迎えてくれたと思う。愚痴を言いに上海を訪ねる機会はなかったが、紆余曲折してよりを戻して結婚した。
6年前に上海出張があり、腰まであった髪をバッサリと切ってボブになっていた友人と再会した。身重な妻に翡翠の腕輪を贈ってくれた。気軽に友人にお土産に持たすものでなく、友人の実家のある昆明の母が何かの折にと贈ってくれた立派な翡翠の腕輪だそうだ。残念ながらその護身加護の翡翠の腕輪はある日、落として割れてしまった。信心の無い私だが腕輪が何かから妻と息子を守って割れてしまいお陰で息子は無事に産まれ健康に育っているのだと思うようにしている。
脳内妄想ではなく、ちゃんと記録が残っていた。備忘録として機能しているではないか。自画自賛。
人生長くなって来るとそれなりにあれこれいろいろと思い出すことができてくるものだ。
子供達には結局、ハンドスピナーをお土産にした。豫園の中だと65元だなどと言われるが、10元ショップで20元で購入した。こういう単純なものが喜ばれる。重厚な金属で虹色に輝いていて唸りを上げて回転する。「宝物にするー」とのこと。メデタシ、メデタシ。