京都ぎらい

井上章一著「京都ぎらい」。2016年の新書大賞で1位だそうだ。大阪の人や洛北、洛南、山科らへんの人が喜んで読んでいるのだろうか。


興味深かった話題をいくつか。


芸者は関東言葉で男を指した。時代が下り女性が宴席に呼ばれるようになると江戸では女芸者、京都では芸子と称した。女の芸者をただの芸者と呼び出したのは江戸東京の花柳界


北山の植物園は戦後、占領軍の住居だった。これによりアメリカ人を相手にした店が集まり現在の北山のおしゃれな街区の原型となった。


観光寺院の拝観料に古都税を課すことを京都市は幾度も試みているが、京都の有力観光寺院は観光業者を事実上の人質にとり、拝観停止の実力行使で観光業を困らせて京都市の試みを挫いてきた。1986年の第三次拝観停止は10ヶ月に及んでいる。


かつてお寺は武士集団の宿営地として利用されることが多々あった。本能寺の織田信長しかり。禅寺の庭園も肉の味の再現に心を砕いた精進料理の数々も禅の奥義とは本質的に無関係で、宿泊業のもてなしとして発展したという営業精神説。


寺には接待のプロめいた人材も抱えていただろう。茶菓のもてなし、話術、歌舞音曲の達人たちも。室町期に阿弥号をとなえていたのは、そのさきがけにあたる僧侶だったのかもしれない。大名の抱える茶坊主が頭を剃って僧形をしていたのも寺に出自のある仕事だったと見ている。


京都の花街は坊さんによって支えられていると豪語する有力寺院の坊さんも未だにいる。袈裟のまま芸子遊びに興じる僧侶の感覚は京都以外では、少なくとも東京ではあり得ない。しかし芸子たちとはしゃぐ今の坊さんの流れも歴史を振り返れば京都においては芸と僧侶の密接な関係からはおかしくはないとの仮説を立てている。


天龍寺後醍醐天皇の怨霊と祟りを恐れた足利尊氏南朝派の大覚寺領を奪った跡地に建てた。


以下、原文引用
「基本的には、自分を幸福だと想うことができている。しかし、そのいっぽうで、私にはその状態をうしろめたく感じるところもある。誰かを犠牲にすることで、このみちたりたくらしはなりたっているんじゃあないか、と。


現代を生きる私に信仰心はないけれども、形をかえた怨霊思想は生きている。うらみをいだいたものの霊になやまされたくない一心で、魂しずめにつとめようとする。それと同じで、自分の精神的な安定を考えて慈善へおもむく部分が、私にないわけではない。


申し訳ないが、自分は比較的いいくらしをしている。ああ、うらまないでほしい。足をひっぱらないでくれ。私も、自分にできる範囲で、いくらかの誠意は見せるから。そんな部分もないとは言いきれぬ自分の心理に、私は怨霊思想の転生した形を読む。」
私が思っていることとほぼ同じことを言葉を費やして丁寧に説明していて驚いた。後ろめたさから喜捨する行動心理を井上氏は怨霊思想の転生と説明しているのは新鮮。そうかもな。

京都ぎらい (朝日新書)

京都ぎらい (朝日新書)