今年は春の気温上昇が早いように思う。もう既に藤が咲いている。
そこら辺の人に記憶を頼りに藤の絵を描いてもらったら、ほとんどの人が単一の紫で塗りつぶすのではないだろうか。紫の二色だけでなく、この中央の黄色を意識している人はどれだけいるのだろう。
京都の大徳寺、南禅寺、銀閣寺、山科疏水から採取して実生で育てている紅葉。爪紅の要素あり。モミジは秋の紅葉よりも芽吹きや新緑が美しいとつくづく思う。
獨逸菖蒲も咲くのは例年は5月ではないかね。
桜空木も咲いた。桜・空木という空木の一種だけれども桜空・木と区切るとなんだかメルヘン。
わからん。藪蘭の一種か。去年は咲いていなかったから誰かが新たに植えてくれたのか。
小手毬も毬をいくつも咲かせ始めた。
結実する気配を見せない、植えて2年目の藤稔。もう少し根を張り、力を蓄えないとダメなのか。
定年隠居後に園芸や庭弄りにのめり込むのは案外、男性が多いというのは分かる気がする。女性、特に主婦は自分が長い時間を過ごす空間を彩り愛でる為に、まだ若い頃から草花を置く。本質的には社交性がなく疲れたおっさんは癒される為に没頭するように思う。
理由を考えてみた。
- 世話をするのにそれなりに時間を費やせる。
- やりこむほどに広がる沼。
- 突き詰めると生態学であり化学である。
- 植物が自分を必要としてくれているように感じる。
- 必要とされる対象として不快ではない(望まない相手から求められるのにウンザリ)
- 責任を放棄しても枯死させても咎められない
- 口答えしない。笑
- 手間をかけるほど応えてくれる。
- 望めば参加を受け入れてくれる品種の作出や作り込んだ鉢を品評し合う同人の大きな輪がある。
- そこで認められると尊敬され賞賛される(裏表のない純粋な名誉と賞賛)
- やり込まなくても、咲いたり実ったりすると報われる。つまり高い確率で報われる。
- 工夫すればお金はかからない。実生、株分け、交換。肥料の自作。
植物は癒しだ。
隠居後に庭弄りにも陶芸にも犬の散歩にも飽きてしまっていたらどうしよう、と思うこともある。今からやらずに老後の楽しみにとっておいた方が良いのではないか。若いうちにしかできない趣味に時間を割いた方が総体として人生を楽しめるのではないか。その一方で、庭弄りも作陶も40年やっても飽きない底無しの世界だとも感じているけれども。