京都仏画師によるレトロ風 乳白ランプシェードに青龍白虎。

 

京都にいる古美術修復にも携わる仏画師の友人にランプシェードに絵を描いてくれとお願いしていたものが届いた。ちなみに京都の社寺仏閣世界遺産なんかも修復に携わっているというと、古木のような頭に布を巻いた作務衣の絵師を思い浮かべてしまいそうだが、友人は30代の女性だ。

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私の好みで、神獣を描いてくれと注文したら白虎と青龍を描いてくれた。白虎と青龍の形のどこが違うのだろうと思ったが、顔が違う。古典意匠だと一見、色違いのつがいに見える。

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どこがこのランプシェードをゆっくり眺めるのに適しているだろうと考えた末、まさにここぞ、という適所が思いついた。トイレ。腰をかけて見上げれば、である。私の滞在時間は短い方だが、嫁さんは存分に眺められることと思う。

 

作陶に行ったら、先生が今年の干支を描いた皿を教室に飾ってくれていた。

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なんか、反則級に可愛らしい。大きな壺を登り窯で焼いて、気に食わなかったらそれこそ割ってそうな古老の先生の風貌からは想像できない華奢で繊細な感性の絵。これをみたら若い女性陶芸作家の手によるものと想像してしまう。しかも2〜3mmという薄さで造形されている。

人は見かけによらぬもの。良い期待の裏切り方をしたい。

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猿から犬へ。来年は猪が楽しみ。

 

 

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自分の作陶はというと、8ヶ月ぶりに轆轤を挽くことにした。感覚を忘れるのに十分な空白期間だ。これだから上達しない。

 

冬の土は凍てつくように冷たい。菊練りをしていると、このままの状態の塊をくり抜いて植木鉢にしてみてはどうかと思う。いっそのこと、今度そんな植木鉢を作ってみようか。

 

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取り敢えずは五点、水挽きした。手前三点は吊り下げ鉢にしようかと思う。ひとつは辰砂、ひとつは白化粧、もうひとつは鬼板に飴釉にしようか。

 

奥二点はドーム状の蓋と台で組み合わさるように飾ろうかと思う。

 

 

 

 

 

高円寺 まるごとスパイスが香るカレー屋「青藍」

高円寺は日本のリトルインドと呼ばれることがしばしある。貧乏長屋が多いからなのか、スラムっぽいガード下や大一市場などの飲食店街があるからなのか、単純にインドからの輸入雑貨屋が数店舗あるからなのか。

 

中でも、カレー屋が多いからだというのは説得力がある。ニューインディア、豆くじら、インド富士子、妄想カレー、サプラ、ピピネラ、TRIP、ブラックカレー、花菜、100時間カレー。名前をあげられないカレー屋もあるかと思う。もちろん、CoCo壱もある。

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カレーは作り置きができるし、時間かけて煮込んだものをよそうだけ。さらに火を入れて何日も持たせられるから廃棄率が抑えられて効率的。それっぽく一皿800〜1000円、トッピングにこだわって追加で数百円のせて客単価がそれなりにとれる。一人客が掻き込むように食べて出て行くので客の回転も早い。原価率も良い。オペレーションも楽。素人がカフェをやるならばカレーはオススメ。

 

そんな内容をカフェ開業の指南本で読んでからというもの、貴重な外食の機会にカレーを食べる気にならなかった。

 

何せ、カレーというやつは家で素人が作ってもそれなりに美味しい。ジャワカレーだのコクまろだのでも良いし、成城石井のカレーパウダーのものは一味違うが作る手間は変わらない。

 

そんな自分が一回試し、なんとなく二回目も行き、三度行くにあたって、ああ、嵌っているのだな、と自覚させられたのが庚申通り商店街の終わりらへんに2017年秋に開店した「青藍」。

 

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白米に寸胴鍋からカレールーを掛けて提供という手軽メニューではない。フライパンでソースや丸ごとのスパイスを炒めるところから始まるので提供されるまで少しばかり時間が

 

キャロットくるみラペとか、アンチョビキャベツ黒胡椒とか、大根浅漬けマスタード和えとか、味の想像できない様々な副菜が同じ皿の上によさわれており、好みで混ぜながら食べていく。しかし何よりもスパイシーカレーは脳天から汗が出るぐらい辛い。これは花山椒の辣か。単に刺激の強さを追求した痛い辛さではなく、濃厚な味を伴う辛さだから辞められなくなる。たまにまるごとのクミンシードなんかも噛むと途端に香りが口の中に広がって楽しい。

 

そういえば、京都の白河、造形大学近くの駱駝という中華料理店も大陸的本格麻婆豆腐がやみつきになる味だったのを思い出した。

 

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自分で似たようなものを作ろうという発想が湧かないカレー。ああ、久しぶりにあそこのカレーが食べたいな、と思ってしまうカレー。

 

高田馬場で数ヶ月試験営業した際に既に客を虜にした味らしく、開店早々、かつてのファンが訪れている様子。

 

11:30~14:00
18:00~21:00(LO20:30)

水曜定休

高円寺の国産紅茶専門喫茶「サルトリイバラ」

ひっそりと二階に佇む国産紅茶専門店「サルトリイバラ」に先日、再訪して、初めておこわセットを頂いた。
 

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私のような肉の塊に喜んでいるようなものにはこの店は上品すぎると感じる。おこわセットも見た目では茶碗一杯で食べても腹五分目ぐらいにしかならないと懸念していた。

 

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今回、正月の疲れた胃腸に良さそうだと頼んでみた。味付けがなんとも優しく、一口一口噛み締めながら、味わいながらぼーっとする。滋味に溢れている。複雑に多層に重なった味。
 
そしておこわなので予想以上に満腹。大人の男でも大盛り無料でも敢えて大盛りにするほどでもない腹具合ならば十分すぎる量。別にビーガンにするほどの信仰上の矜持も拘りもないけれども、お腹に優しい美味しい菜食を求めている時にぴったりなお店。
 
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紅茶は小田原の紅茶のセカンドフラッシュのものを選んで頂いた。深みと渋みも備えて男性に好まれるとのこと。なるほど、美味い。

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このお店の磁器のカップは店の印象と合って繊細で華奢で優雅。

 
本を読みに
独りで静かに物思いに
お夜食を食べに
 
 
 
前回
 
高円寺駅前にほど近い、パル商店街からエトワール通り商店街に入ってすぐの路地のマンション2階。店内を確認してから入る客は皆無であろう奥まった立地に新しくできた店。

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日本国産紅茶の専門喫茶店「サルトリイバラ」。昨今、日本国産の紅茶は英国でも受賞するほど品質が高まっているのだという。戦前戦後のかつては日本の輸出品だったこともあるという。そんな脚光を浴び始めた国産紅茶、花茶に光をあてる店。

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店内は緑を基調に額絵、ガラス什器、異形の植物の種など静的なオブジェが置かれたシンプルな内装。クラシックが流れ、振り子時計の刻む音も大きい。大きな音が流れているのに静かに感じさせる空間。これは外のパチンコ屋や往来の喧騒を消す工夫だろうか。

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12月の年末に初めて来た際には小田原産のヤブキタとの掛け合わせ品種の2ndを頂いた(うろ覚え)。紅茶とは言え、緑茶の風味が感じられるもので、私としては紅茶を期待して飲む度に煎茶の風味に戸惑うシロモノだった。国産紅茶の専門店だから王道の紅茶を飲みたいと思って前回は店を後にした。

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そこで今回は「大石さんの対馬紅茶 べにふうき」 を頂いた。「甘い花香にしっかりとしたコクの深さ」と説明が付されている。メニューの中で最も紅茶の味わいがしっかりとしているとのことだったが、なるほど、紅茶の苦味が勝る一歩手前というか、これぞ紅茶抽出汁と言わんばかりの強い味わい。美味い。家では自分では淹れられない味だと思う。

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熟成ラム酒ケーキを摘みながら、本を読みながら、2時間ほど過ごさせてもらった。
 
紅茶は大きなガラスの急須で提供され、出される小さなカップだと5、6杯はお代わりができる。ポットウォーマーで包むので冬でも温かいまま長く楽しめる。
 
紅茶は750〜850円。自宅でもマリアージュフレールを愛飲するほどに紅茶好きではあるが、そんな自分にも安くはない値段設定。ケーキを合わせると、お腹に溜まる食事にはならず、本当に食間のお茶休憩としての過ごし方で1300円程度してしまう。高円寺物価だとかなり高いほうではないだろうか。
 
14席の店内で土日の昼過ぎで客が私一人だけという瞬間が前回も今回もあった。友人とお喋りするよりも、一人、数人で静かにお茶を飲んで寛ぐ過ごし方を推奨しているようだ。

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私はこういう店が好きだ。オーナーの描く理想と、オーナーの好きなものを客に紹介したいという姿勢が明確な店。客層のニーズを探りながら二転三転する店よりも、好きなことを好きなようにやる語弊なく言えばオーナーの独善に溢れた店のほうが好きだ。自分の好きな世界観をどうぞ愉しんでいって下さい、と。

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往来の目に触れづらく一見客は期待しにくい。南仏アンティーク調のお洒落な内装の店としてはすぐ目と鼻の先に「シェパーズパース」という1階路面カフェがあり、一人で本を読む空間としては「R座読書房」がある街区だ。ネットや口コミでの宣伝もあまり積極的な印象を受けない。
 
無農薬栽培で作り手の見える国産紅茶。美味しい紅茶の価値のわかる人に応えられる店のように思う。私には味わい尽くせない。足繁く通う店にはならないくらいわたしには少し敷居が高いのだが、たまに来て落ち着いた雰囲気の中で美味しい紅茶を飲みたい。狭い範囲の高円寺住人が頻繁に行く店ではなさそうなので、この店が広く知られ、支えられ、残っていってほしいと願う次第。
 
夜は良酒有り。お腹に優しい「おこわ」のお夜食もあるとのこと。
 
こういう、専門色と独自の世界観の強い店の経営ノウハウに興味がある。
 
水曜定休日
日月火12:00〜22:00
木金土12:00〜23:00
この手のお店にしては遅くまでやっているのも嬉しい。

低温調理愛が止まらない

 

昔ならば見ることも叶わなかった秘境の絶景写真すら検索すればいくらでも出てくる世の中。

 

世の中、大抵のことは既に情報が出回っていて手軽にできないことは初期投資が多額か、技術的に難易度が高いかだと感じていた。

 

しかし真空低温調理がこんなにも簡単でこんなにも美味しいとは盲点。まだまだ人生には知らない喜びがあるのだと象徴的に教えてくれた。希望が持てる。

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肉のエアーズロック

 

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A5牛ステーキ。外で美味しいステーキを1回食べるよりも自宅でスーパーの上等なステーキを真空低温調理したものを5回食べたい。

 

鶏ハムもしっとりとして美味。

 

嫁さんが作ってくれた焼豚も最高だ。柔らかい。簡単に嚙み切れる。肉の旨味が強い。

 

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今のところ最も好みなのはハラミステーキ肉。

 

早速、フランス人にフランス人ならSOUS VIDEを知ってるだろう。食材の味が2ランクアップするぞ、と意地悪に言ってみると「あー聞いたことあるよ。やってみようと思ってたんだけどさ」と若干知ったかぶりの反応。まあ、そういう私も一年以上遅れて流行り物に飛びついているわけだが。彼は彼でロボットクッキングなるものにはまっているらしい。

 

ブログには仕事のことは書くまいと思っていたが、昨日は思わず愚痴を垂れ流してしまった。気を取り直して、真空低温調理器のような良い仕事をすべく頑張ろうと思う。

 

 

 

17連休は職務への耐性を失わせていた

サンシャイン斎藤工はもう観られないけれどもアキラ100%が生放送で失敗して、それでいてなぜか漢を上げたらしい。Youtubeのスロー再生回数がすごい。年末にはお笑いでニュースがあるものだ。北朝鮮情勢は緊迫しているというのに、日本は相変わらず、実態はともあれのんびり平和な空気に覆われている。
 
家族:クリスマスケーキを息子と作った。砂糖少なめフルーツマシマシ。ハニーローストチキンもオニオングラタンスープも作った。妙法寺へ初詣にも行った。
家族:できあがった和装家族写真を写真館に取りに行き、両実家に贈った。家族の肖像写真樹系図をつくった。
家族:子供の習い事送迎。体操教室でボイコットしていた次男坊と男の約束(ケーキで買収)して無事参加するようにできた。長男は完全に自転車に乗れるようになった。
家族:実家に帰省。肉汁たっぷりの餃子を75個子供と作った。黒豆を炊き、栗金団も作った。真空低温調理器と出会い、ステーキ、ローストビーフ、鶏ハムを作った。
家族:元政治家邸宅で妻と豪華ランチ。雰囲気に酔った。
家族:パパ会でしっかりと社交性を発揮する
おでかけ:鉄道博物館、おふろカフェには行けなかった。マンゴー殿がいることを忘れていた。
家族:犬と朝晩ジョギング。実家帰省中も欠かさずにのべ45kmほど走った。
趣味:高円寺の飲食店新規開拓。青藍、兎座。
趣味:作陶の補習をできれば2回。戌年なので犬の陶板モビールを作り、神鹿鉢を作った。
仕事:フランス語はかじらなかった。

仕事:2018年に必要と思われる分野の書籍3冊を読みきる意気込みは1.5冊で終わったがとても刺激を受ける内容ではあった。

 
なんだかんだ、息子達とたくさん遊んだ。それが一番満足度が高いかもしれない。充実した休みだったとは思う。
 
さあ、休みを充実させられたことだし、気持ちを切り替えてバリバリと仕事に復帰しよう。しかしそうはならなかった。
 
まず、電車が信じがたい混雑で乗り込まずに2本見送った。自らの体を押し込めたら乗れるように思えたし、躊躇って後ろに下がったら、他の人が身体をねじ込んで先に乗っていった。3本目の電車は少し空いたように思えたので乗り込んだが、足を踏まれ、脇を押され。具合の悪い人が出たとかで途中駅で電車は再度止まった。気分が悪くなっていく。通勤電車ってこんなに苛烈だったっけ。こんな輸送機に乗り込んでいたのだっけ。皆、表情が怖い。苛立った声色で誰かが「降ります」と叫ぶ。声色のニュアンスは「降ろしてください」ではなく、「降りる人がいるのに邪魔するあなた達は非常識だ、どきなさい」に近いのかもしれない。
 
丸一日、仕事に身が入らなかった。給料泥棒と後ろ指を指されても今日に限っては抗弁できない。
 
あれもやらないと、これも手を打っておかないと。あれ、自分はどういう立場で何をしないといけないのだっけ。こんなことを今後もしていかないといけないのか。え、それは楽しいのか? これから毎日、こんなことをしていかないといけないのか。そんな厄介ごと、私にはわからんよ。プラレールなら作れそうだが。土で鹿もどきなら作る自信はあるけれども。そんなことより真空低温調理したい。

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あとローキック1発で立ち上がれなくなるような心理的ふらふら具合をポーカーフェースで誤魔化しながら「またあっというまに忙しくなりますね」と嘯きながら帰った。内心は脂汗。
 
何を心の支えにして私は仕事に臨んでいたのだろう。17日間も仕事を離れると、かつては毎日のように行なっていたルーチンを客観視できるようになってしまった。なんでこんなことしていかないといけないのか、と思ってしまった。明日からどうしよう。
 
 
  • 通勤で失われる気力が無駄。
  • 同じ時間に一斉に通勤するのが無駄。
  • 新年の挨拶が形式的だし、それでいて時間を取られる。アケマシテオメデトウゴザイマス。誰もおめでたいとは思ってないのでは。
  • 対人関係の潤滑油として皆が「正月はどう過ごされました」とか「ご実家はどちらですか」なんて聞く。のべ合計数時間に積み重なる勢い。
  • 30分、1時間単位の会議が無駄。設定された時間一杯みんな喋る。
  • 誰かがきちんと仕事しているかの確認作業が多い、それぞれがきちんとやっていたらこの作業は不要。
  • 給与の妥当性はその価値を生み出しているか、よりもそのぐらい払わないとそれをしてくれる人材が確保できない、という意味合いの方が強いかもしれない
  • 理論的には不要だが無くせない業務をしてもらうための人がたくさん
  • 18時を過ぎないと帰りづらい雰囲気がある。もうやることないのに。
  • 年末年始に家族に気持ちの余裕があったのは育児がダブルオペレーションだったから。加えて祖父母の助けもあったから。
  • さらに生活に余裕がなくなると大家族化、複合家族化して共同で子供の面倒を見るのは一つの解決策か。
  • 新宿のような巨大ターミナル駅の飲食店は美味しくないところばかり。一見客相手に如何に早く提供するか。
  • 美味しく調理するのに必要な手間と時間というものがあり、シンプルな素材で適切に調理さたものは美味い。
 
 
 
 

神鹿風鉢の造形完了。団子虫鉢とともに窯へ。

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脚を少しばかり細くしたが、これ以上やると素焼きの際に胴体の重みで曲がってしまいそうで断念した。

 

細い輪カンナで毛並みの鎬を掘り入れて、信楽白土を上から塗った。造形はこれで完成。サブレッドなどの軽い種馬に対してばんえい馬のような重種馬もいるわけで、この脚のがっちりした鹿は重種鹿なのだろう。

 

鹿の眼はさらに細工を入れるか悩んだがやめた。目元を少し切開したら鹿らしい表情に近づいた。前作、前々作よりも進歩している手応えはある。

 

 

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背中に乗せたのは蓮華座のようなもので、奈良の春日大社の神鹿が背に似たような花托を背負い、そこから樹状の植物が生えていたのを真似ている。

 

私なりの植物賛美の思いを好きな鹿に背負わせてみた。

 

蓮華座には緑青銅釉というものを掛けてみた。無事に期待通りに焼けてくれるだろうか。

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角にはまた緑蛇でも良いけれども、何かちがう種類の多肉を試してみても良い。


作等の満足度としては仕上げ工程はさほど充実感がない。細かい作業が多いし些細な造形不具合が気になり続ける。初日に土で無造作に形を作っていって、予想外にこんな形になった、という展開が楽しい。同じ型を複数作るとなるとまた作業的で面白味が減ってしまうのだろうな。

 

また座位の鹿鉢を作り直したい。


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団子虫鉢はトルコ青結晶釉を筆でかなり厚塗りしてみた。禿げる可能性も高いが、それも含めて実験してみたい。

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今回は腹部を蓋状に取り外し可能。


揺れる宗教 富岡八幡宮と映画「スポットライト」

観光資源に恵まれ、経済的に非常に豊かだったとされる富岡八幡宮だが元宮司の当代宮司殺害事件以降、初詣の参拝客は8割ほども減ったとか。

 

そもそもの神道の性格上、格の高い神社の神職最高位にあった者が「私は死後においてもこの世に残り、怨霊となり、私の要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に祟り続けます」と言い残して肉親を殺害後に自死したものを祟りは迷信だの、事件と神社は切り離してこれまで通りご参拝下さいとは言い難いだろう。祓えば良いと気軽に言える通りならば最高神職の霊験だのも否定されるわけで。富岡八幡宮広報担当者が" 『祟り』などといったものも抑えこんでいけるものと考えております"と表明したそうだが、そもそも彼らは祟りを信じているのか、認識できるのか、祓えるのか。心の内はどうなのだろう。

 

 

映画「スポットライト」を観た。2002年以降吹き荒れたカトリック教会の司祭による専ら児童への性的虐待告発の震源地である、ボストン・グローブ新聞社の告発記事を題材にした映画だ。

 

CNNの調査曰くアメリカで"1950年から2002年にかけての52年間で、神父4450人が疑いがあると報道し、件数は約11000件に上ると報じた。これはその期間中における神父の人数11万人の内の4%である。約11000件中立証できたのは6700件、立証できなかったのは1000件、神父が死亡したなどの原因で調査不可能になってしまったものが3300件であった[12]。"とのこと。

 http://edition.cnn.com/2004/US/02/16/church.abuse/


以降ボストン大司教の辞職、数百人の司祭の解任、数々の刑事告訴や訴訟へと繋がり、影響はドイツ、イギリス、アイルランドなど多くの国々へと広がっていった。

 

映画で描かれているように教会のシステムが組織ぐるみで数々の罪を把握しながら黙殺あるいは隠蔽してきたそうな。

 

作品中に「教会は人が作り出したもので過ちもするしいつかは滅びる。信仰は違う。二つを区別しようと努力しているよ」といった趣旨のセリフが印象的だった。

 

 そういえばフィリピンもカトリック信者が多い国で、信仰を誇る人も多い。しかし一方では「毎週末に教会に通っているアピールする奴にはヘドが出る」「聖書を盲読するよりも自分の浅薄な振る舞いを顧みた方が良い」「あんな奴らが敬虔な信者とは思わない方が良い」と二人きりの時に私に吐き捨てた人を思い出す。彼は敬虔な信者としての義憤を吐いたのか、カトリックを信じてない者としての侮蔑だったのか、彼の立ち位置は今となってはわからない。

 

  • 人前で綺麗事ばかり言う人、聖人君主ヅラしている人というのは信用ならん。
  • 信仰は秘して行うものであって、他者にアピールするものでもそれを通じて自分の印象をなにがしか形成させるものでもない。

この二つは心に留めておきたいものだ。金に執着する者よりも人格的名声に執着する者が最も醜悪かもしれない。NGOや支援団体の理事や名誉職にはそういう人が集まりやすい。

 

子供達に対して尊敬できる人格者な親父であろうと振る舞いたくなるが、病理は同じだ。息子達よりは分別があり知恵も経験もあるけれども、親父とてモノグサで時にズルくて、間違うこともあり、気紛れで、偏見も持っているし約束を破ることもある。そこは開き直ってしまいたいし、子供達にもそう認識された上で多少の尊敬を辛うじて得られるようでありたい。取り敢えず間違った時には子供達に謝れるようでありたいし、白々しく綺麗事を述べるようにはなりたくないものだ。

 

人に認められることを求めず、ひっそりと堅実に自らが正しいと思うことを守っていくのが最も自らの強さを求められる生き方なのかもしれんわな。