案の定、渋谷のハロウィンには安易な「ジョーカー」に扮した輩が多かった様子。服も調達しやすいし、顔のメイクでジョーカーだとわかりやすいから手軽なのだろうな。
世間に遅れて「ジョーカー」を新宿ピカデリーに観に行った。
「何者にもなれなかった人」だとか「無敵の人」と聞くだけでその人の背景や境遇の一定の状況が想像できるほどにこの2つの言葉は広く知られるようになったと思う。
秋葉原の事件であったり、新幹線での無差別殺人であったり、人生に絶望した先で及んだ凶行事件の数々を簡単にいくつも思い出せる。
この映画に自分の気持ちを代弁された、自分が肯定された。そう思う人が昨今沢山いるのではないか。そしてそんな不満分子が社会に増加しており、この映画がさらに助長するのではないかと上流階級や富裕層が懸念していることがこの映画の物議を醸した背景なのではないか。
ホアキン演じるアーサーはひたすら不器用な不幸な男として描かれる。善意で試みたことが上手くいかない、何が悪いのか自覚できない。言われた通りにやっても人と同じようにできない。
「ネタすらも暗記してない奴がコメディアン目指しているのが笑止。舐めてる。努力が足りない」という感想もネット上で見た。努力をする能力、努力した結果暗記できる能力も含め能力を備えた人間が努力していない姿を描いているのではなく、能力を備えていない人間の足掻きと不幸を描いているように思う。
母親からの絶望的な嘘。しかしそれも母親の精神疾患が故なら悪意のある裏切りとも言えないのかもしれない。
ひたすら境遇が不幸な男だということはわかった。救いがない。だからといって、それら境遇故に悪に染まることが正当化されるとは思えない。ウォールストリートの3人組、人を嗤うことで笑いを取る司会者、大富豪。被害者意識と思い込みで彼を軽んじた輩に対して過剰な復讐に走るのは多少なりともわかるとしても、同じアパートに住む、幼い娘を抱えたシングルマザーへの仕打ちは何なのか。彼女に何の非があるのか。悪人なりの矜恃もなく、自分よりも弱い人を手にかけた。
なんだか消化しきれずに夜中の12時過ぎから「ダークナイト」を観た。この両作品のジョーカーはどうしても結びつかない。「ダークナイト」で描かれる嘲笑うように正義の味方だけでなく悪人どもも裏をかいて翻弄するジョーカーの悪の知性を「ジョーカー」のアーサーには感じないのだよな。衝動的で行き当たりばったりで悪人としても不器用な男。「ダークナイト」冒頭で銀行強盗に加担した挙句、捨石にされて殺される子悪党のほうがアーサーらしい。ジョーカーはベクトルは違えど高い知性を持ったヒールなはずだ。
それにしても、今のご時世、超絶富豪のスーパーヒーローがもはや共感を得られづらいのだろう。ブルースウェインよりもアーサーに対しての方が感情移入しやすい。
子供が純粋に憧れるヒーローを作ることを大人はやめてしまったのだろうか。マーベルやDCは実写化でアメコミを卒業した層を相手に稼ぐことには大成功したかもしれない。現実の多面性や重層性を注入することで想像の世界に現実味を与え子供騙しではなく大人が観るものにアメコミ映画を仕立てられたのかもしれないが、子供の夢を壊したようにも思う。
R指定だよ、子供は見ないよ、とそんな都合良くはいかないと思う。
ホアキン・フェニックスの瞳が澄んでいて綺麗だった。すらりと痩せた体に服が良く似合う。映像も音楽も素晴らしい。そして身勝手な被害者意識と自己正当化を煽る映画。