「スペードの3」
子供たちの嫉妬や不安、加虐性、優等感、劣等感などは誰もが少なからず似た経験をした青春期の思い出として苦く生暖かく受け入れられがち。その一方で大人の嫉妬や悪意は肯定しようのないものだけど大人になっても子供の頃と変わらずに持ち続けているのではないかね。
そういう内心の醜さや葛藤を描かせたら巧い朝井リョウの洞察と勘繰りは著者本人のことが心配になるぐらいだ。
「何者」では表面的な友達づきあいの裏の卑怯さや卑屈さを鋭く抉り出して白日の下に曝すだけだったが「スペードの3」では誰もが持つ暗い面を受け入れてなお開き直り自らを変えていこうと一歩を踏み出す希望も描かれる。
つかさという劇団女優の描かれ方が興味深い。No1にはなれないスター。ファンからしたら雲の上の存在かもしれないが、本人の視座からしたら尻すぼみの冴えない女優。優等生でこれまでもそつなくこなし、それなりに境遇や能力にも恵まれ、物語の主役になるような悲劇もドラマもない。そんな自分を受け入れ、開き直ってまた一歩を踏み出していく。
「仏果を得ず」
三浦しをんが文楽の世界を題材に描き出した良作。自分には縁遠い世界を垣間見せてくれる作品は好きだ。この作品を読んで、文楽を観てみたくなった。三浦しをんの作品は職業疑似体験の宝庫ではずれが少ない。辞書編纂者、樵、探偵などなど。
単に文楽を極めんとする技芸員たちを描くに留まらず、作品中の登場人物の心情を理解しようと奮闘する過程で文楽作品の様々な登場人物の一見わかりづらい心情と生きざまが描き出されており濃密な作品だ。
他人からしたら愚かで衝動的で刹那的にしか見えないかもしれないが、本人としてはどうすれば正解なのかわからない苦しさの中で、思い詰め、すがるしかなかった手段。誤解やすれ違いが重なり、膨らみ、誰も悪人がいない中で誰もが不幸になっていく。ハリウッド映画の「21グラム」を思い出す。仮名手本忠臣蔵に描かれる忠臣にはなれなかった早野勘平の心情を解き明かす過程をクライマックスに持ってきている点が秀逸。
「仏果を得ず」に描かれる技芸員ほどに、極めたいと思う何かを自分は持ち合わせてはいない。極めたいと思える何かを持っている人が羨ましい。まわりがどう評価しようが自分の価値観と美意識で極めたいと思えるもの。
自分の今の仕事を極めたいと思ったことはないし、今後もなさそうだ。では陶器の道はどうだろう。何も文楽の世界も誰もが一人で極めようとしているわけではない。太夫と三味線が競い合い、高めあっていく。志を同じくする作陶仲間に巡り合えたら、今の仕事を捨て、子供との時間すら斬り捨てて作陶に没頭できるだろうか。自分の頭の中の理想を目指して釉薬の数百万の調合組み合わせの世界に足を踏み入れられるだろうか。多肉植物が好きだからと言って、新品種の作出に時間や資金をなげうてるだろうか。
たぶん、私は劣化版の「スペードの3」における「つかさ」なのかもしれない。属性や境遇などの表面的な情報だけを他人に伝えれば、私の今までの人生はけして最良ではないが誰も悪いとはいわない要素ばかりだろう。むしろ小学校の同窓会なんかにいけば憧れたり羨ましがられる要素に恵まれているかもしれず、成功した一人、幸せそうな一人に分類されるかもしれない。自分を客観視すると、親の愛情も得て経済的に困窮することもなく育った。逆境をバネにするような不幸や試練のエピソードなどもないし、突き抜けたことも何一つ無いと思う。武勇伝になるような振る舞いも何一つない。何事も要領よく、そつなくこなしてきた、が自分自身の正確な描写なのだと思う。
胸を張れるような社会貢献もしていない。そんな冴えなさにこれで良いのかと暗い気持ちになることもある。これだけ恵まれた状況で幸せを感じられない自分自身の性根を申し訳なく思うこともある。胸を張れるような社会貢献ができている人からすれば、行動すればいいだけだ、行動しろよと思われる気がする。頭では分かっているし、すべきかもしれないが何をしたら良いのか頭の中で像が結べていない。仕事も迷惑はかけたくないし、それなりに良い夫であり父でもありたいし、本を読んだり作陶したり余暇も必要としているし。そうこうしているうちに日々は過ぎてしまう。その結果、することなすことが半端に終わっている。だからどうしろというのだ、という鬱憤や葛藤を半端なりにその半端な目の前の物事に精一杯ぶつけているという意味では「仮名手本忠臣蔵」の「早野勘平」に通じるのかもしれない。
悲劇性に欠けた半端な「早野勘平」に通じる自分は「つかさ」ほどに開き直って一歩を踏み出すところまで達観もできていないというわけか。10年後にこの靄は晴れているのか、より深くなっているのか。如何に。