- 専業主婦が達成感が感じ辛いしんどさの一端
- 教育ママと化す心理の一端
- ドラマに出てくるような出来が悪い子供を認められなくなるエリート親の気持ち
- 親としても最善を尽くさないといけないという強迫観念の源泉
そんなことを垣間見た気がする。
中国とインドから帰国し、家の手入れや掃除に1日をあて、そして親戚を4人ほど招き長男の誕生会を開いた。
私の兄が子供の好きそうなものをいつも持ってきてくれる。
一日中、長男は随分と興奮気味にはしゃいでいた。その反動で夜は少し情緒が乱れて泣いた。いつものことだ。子供の神経は繊細だ。
何年前かの同じ日に生まれたというだけで、主役になり、みんなから祝ってもらえるというその絶対肯定は子供が得られる幸せの原体験だなんて話を聞いた。
そういえば、親子家族の写真を部屋の目にできる場所に飾ると親から愛されているという自己肯定感が強まるなんて話を聞いた。何枚か印刷して部屋に張りだそうかと思う。
翌日、嫁さんに夜まで息抜きに好きに出かけてもらって息子二人と過ごした。
遊具のたくさんある大きな公園に行くと長男と同じ幼稚園の友達がいて長男は二人で遊んでいた。下の子は黙々と砂場で砂遊びをしていた。何かあっては困るから絶えず交互に子供を見守っていると自分自身としては何もできない時間が過ぎていく。
見守っていると、同じ月齢のその女の子のお友達と比べて、うちの子のほうがあれこれと拙いことが目についてきてしまう。喋りが拙い。遊具を登ったり降りたりが鈍臭い。ブランコを上手にこげない。その子が飛び抜けているわけではない。
そういえば、1年間他の子と同じように水泳の時間があったが泳力テストでは落ち続け、年中になってようやく上のクラスに上がった。どうやら、あまり運動が好きで得意なタイプではないらしい。いや、こんなことは遥かに昔から察していたことではある。
気づかないうちに、自分が子供の頃はもう少し上手にできたような気がするだとか、あれこれと比べてしまう。もどかしい。根底にあるのは、才覚や要領が悪いと世の中は飛躍的に苦労が多く生きるのがしんどくなっていくと私自身が感じていて、子供には乗り越えていく強さなり特技を持って欲しいという心配と願いがある。
半年以上前に似たような泳力だったお友達が、いまや二つ上のクラスに上がっていたという話を聞いた。お爺ちゃんが水泳の先生で、特訓してもらっているのだという。それを聞いてなるほどな、と少し安堵した。そんな特訓を受けていたのだからその子は特別だと。しかし、はたと思い返すとたまにいく市民プールでは大抵、父親に水泳を教わる幼稚園のお友達がいた。他の子と同じ時間だけ泳いで出た差ではなく、子供の泳力はその子自身の適性や能力と親のサポートの和であることは一部で事実だ。
「子供の成功は親のサポートの賜物」。これがどれだけ事実なのかはわからない。しかしこれこそが親の悩みの大きな根源かもしれない。
これは子供の成長や成功が親としての達成感の尺度になりやすいことを示唆する。
仕事は昇級や昇進、肩書きなどで目に見えて自分へ評価が可視化される。給料が生活を支えているという単純な事実に裏打ちされて仕事の重要性には疑問を挟む余地は少ない。専業主婦の達成感はどこで得られるのだろう。家事洗濯の手際が良くなっても褒める人はいない。料理が上手くなれば食べさせる家族からは褒めてもらえるかもしれない。しかしそんなことは少ない。(もっと嫁の料理に感謝し褒めるべき)
同じように受験競争を潜り抜け、就職活動をし、男と肩を並べ、あるいはそれ以上の仕事をして認められてきた有能な女性達が結婚出産を機に評価軸の不明な家事育児という世界に放り込まれる。
暇が苦痛であるように、自分への客観評価軸が不明な世界というのは想像すればするほど実は恐ろしい状況なのではないか。子供を見守る以外に何もできない時間を過ごしてあれこれ考えていると、こんな日々が毎日続き、何年も続くことを想像すると吐き気がしそうだった。そうしている間にも自分の若さや可能性が失われていく喪失感が追い打ちをかける。仕事をそれなりにしてても中年クライシスに陥っているぐらいなのに、元々仕事をバリバリしていた主婦の葛藤はそれの比じゃなさそうだぞ、と気づいた。新緑の下、涼風の吹く陽だまりが不毛な荒野のように感じてくる。
インテリアに心を砕いてオシャレな家を作り上げ、ママ友を家に呼んで褒めてもらう。弁当をデコって子供や友人に褒めてもらう。そして最たるものが、子供の習い事や学業での成功を自分の親としての業績評価の指標として没頭していくこと。そこに自己発露を求めていってしまうことに無理はない。親としてさらに子供をサポートすれば、もっと子供の習い事や学業の成績が良くなる。限度のない世界が口を開けているわけだ。
しかしそこは子供の優劣比較を通じて親同士の出来不出来を比較する世界なのかもしれない。子離れできないアスリートの親や、これが子供を東大に入れた私の教育方法ですなどと表に出たがる母親の様も説明がつくように思える。
子供の成功を親としての成功尺度としてしか捉えられない時、期待に応えられない子供を認めないエリートの親のような醜い姿が生まれるのだろう。子を子として見られず、自分の親としての「劣」評価を意識させる存在として捉えてしまうのだろう。
他人と競うこと、目に見える成果を出すこと、他人からの評価に自己肯定を委ねること。社会人としてそれらにいつの間にか心の芯まで浸かっていることに気付かされる。
お受験なんて世知辛い。伸び伸びと育って欲しい。健康に育つなら何も言うまい。好きなことをやらせたい。呑気にこんなことを言っていたが、そうできるためにはもっと肝が据わらないといけない。親に芯や軸がないと、子が親の道具に陥る危険性を感じる。
愛情さえ十分にかけていれば子は育つと思っている。親としては子に可能な限り機会さえ与える努力をした後は、どんな結果も受け止めるべきなのだろう。子供が何に秀でようが苦手としようが、それを親としての過不足に結び付けないことが子を絶対肯定して受け止められる道なのかもしれないと思った。
うちの子供は遅れてるんじゃないか、という心配を掘り下げたら自分が親としても人間としても未だしょうもなくて未熟だという地点にたどり着いた。肩書きも職権も職歴も学歴も年収も住まいもローン残高も妻子も親も全て取り払って何を持ってして自分を肯定できるのかに答えを得たい。子供に過干渉することなく暖かく見守る親ってのは、仕事に没頭して出世に励む親よりも胆力と器が必要なのだと思う。
それにだ、蓋を開けてみたら、結局のところ息子のほうが私なんかよりも遥かに優秀で性根の良い男に育つのかもしれない。息子とて親父にできない呼ばわりされる筋合いはないというだろうよ。
子供の公園遊びを見守るのは、こんな長文が書けてしまうぐらい手持ち無沙汰だった。仕事の意識で家事育児をしたら、イライラして過干渉になって碌でもない親になりそうなことも分かった。あと、嫁さんを見直した。