ゲリラカフェ予定未亭

住宅街に分け入り、路地をさらに突き進むと不思議な洋館の先に藪が茂る空間がある。その中の大きな樹に床が組まれ、いわゆるツリーハウスのようなものになっている。そこでゲリラカフェという期間限定の野天カフェが催されていた。


樹の下にはテーブルが置かれ、酒や珈琲の什器が並ぶ。珈琲一杯250円。酒は300円。誰もがぶらりと訪れて、気軽に寛いでもらいたいのだそうだ。なんとも有難い。そのもてなしの心に従うことにした。


床に梯子で上がると木々の間に入ることができ、日陰に風が抜けて大層気持ちが良い。黴の生えたようなのとは違い、まだロープ目が真っ白なハンモックが二つ吊るされている。そのハンモックのひとつに身を委ねて思わぬ気持ちよさに2時間ほど佇んだ。


樹上で幾人かの学生さんと談笑した。皆、旅行好きらしくパタゴニアマグレブなど様々な地域を訪れたようだ。一人は中国に1年近くいたということで将来の中国旅行の参考に色々と話を聞いた。次はサマルカンドに行ってみたいなんて聞くとこちらも昔の放浪癖が疼いてくる。


京都大学の学生らのようだが、皆一様に留年を幾度も重ねている様子。往復の日付変更自由な航空券を持って、宿の予約も計画も無しに旅に出る。毎日を其の時の気分や気紛れで旅して歩くような放浪の自由を楽しむようなやつは、どちらかというと大企業の出世街道に乗る側よりは定職も持たずに落伍する側に多いと思っている。彼らのように難関大学には入れることと落伍者的素質を持っていることは矛盾しない。そして自分は常々、本来なら落伍者側にいて当然の人間だと思う。「なるようになるさ」という楽観に身を任せて流される受身な姿勢。肩の力の抜けた自然体と言えば聞こえはよいが競争心や向上心に欠けている。


やりたいことを追求すればするほど金にならないことを考えてしまう。貨幣経済の世において金にならないということは乱暴に言えば経済的に低価値だと宣告されているようなものだが、依怙地になって「非金銭的価値」を主張する。世の中で本当に価値があるものなら、それにお金を払う人もいるということがわかっていない。自己満足に過ぎないということに無自覚ともいえる。


自分は全く異なる条件で人生をやり直したら高い確率でプー太郎になっていたように思うのだが、親が歩ませてくれた全うな道程にこれまた強固な意志を持って抗うことも無く身を委ねて惰性で進んだおかげでそれなりに恵まれた職に就きそれなりの収入を得ている。それを台無しにするかのような本来の落伍者性分というようなものが時折むくりと起き上がるのを感じる。しかしそれも分不相応な安寧を捨てるほどの覚悟も無いので衝動が収まるまでやり過ごす。一言でいうとぐだぐだしていて「しょうもない」というだけなのだが、それをどこか楽しんでもいるから性質が悪い。そんな中途半端な奴には最高に居心地の良い野天カフェだった。



マスターは無論、落伍者なんかではない。