ムンバイから飛行機でアウランガーバードまて1時間。さらに街から車で2時間の距離にアジャンタ石窟はある。川に削り取られた湾曲した岩壁に30近くもの石窟が並ぶ。雨季も修行の日々を送れるように岩を削り出して作ったのだそうだ。
目と鼻の先にある滝壺から急激に地形が削られ渓谷が形成されている。軟質だった地質が一気に削り取られていき、石窟が彫られた硬い地質だけが残ったということか。これは僧が逃れたかった雨季の雨の厳しさの現れでもある。
入口に最も近い第1窟に、法隆寺金堂壁画の源流と言われるグプタ様式で蓮華手菩薩が描かれている。左右に対になって侍るように描かれ、中央にはさらに石室仏殿があり仏陀坐像が説法印を結んで鎮座している。
5世紀といえば西洋画は真正面か真横から描いた躍動感の全くないイコン画の時代。日本とて正面か横顔か、表情に乏しい絵画表現ばかりだったかと思う。その時代に身体を優雅にくねらせ、伏せ目がちに斜め下を向くこの菩薩像の優雅な描写は奇跡的。当時はもっと彩色華やかだったのだろうが、今日の彩度が落ちた風情も素晴らしい。
身体の曲線は現代でも通じる美だと思うのだが、唯一、気になるのが左右の眉毛が繋がっている点。フリーダカーロの源流かね。世の中には繋がった眉毛に美を見出す人が古今東西、いたのだろうか。
当時は壁画の色も鮮やかで、床には布や織物が敷かれて賑やかだったのだろうか。両側の石室で修行僧が寝泊りしていたとのこと。遺跡となった今は色褪せ、静謐さと神秘さに溢れて素敵だと思う。
とても密教的な空気感の濃さ。高度に突き詰め昇華された当時の仏教僧の思念が1500年経っても消えずに留まっているかのよう。気配の濃さは少しおっかない。
アジャンタ石窟も坐像の下には対に鹿が描かれ、台座の隅には獅子が描かれる。目を引くのが左手小指を右手親指と人差し指で摘む説法印。
地球の歩き方には、30窟のうち5窟ばかりを見れば十分などとロクでもないことを書いているが、その選に漏れている窟にも素晴らしいものが多い。
このように奥壁に仏殿を持つ石窟が25近くもあるのだが、其々が異なっており、毎回、開窟する度に施主が思うところの最高の美意識を具現化しようと努力したのではないだろうか。
石仏好きにはたまらんこの並び。自宅の廊下なんぞが漆喰壁になっていて、一部がこのように石仏を収めるニッチになっていたら最高なのに。
残り5つが2階分の高さを持つ仏塔のあるチャイタヤ窟。寝泊りし修行する僧院と異なり、チャイタヤ窟は仏塔など信仰対象を祀ることに主眼が置かれた空間。
鯨の肋骨のような天井の梁組。全てが岩壁を一刀彫りの如く削り出しているというのだから気が遠くなる。
石仏の細かな穴には地衣類が入り込み、緑の斑目となっていた。当時は石肌そのままが露出していたわけではなく漆喰などでさらに覆われていたのだろうか。
第29窟には涅槃像がある。柱の奥に拝むその構成といい、造形といい、溜息が出る。
とても古い史跡や美術工芸は、その考古学的な価値が美術的価値を往往にして上回ると思う。希少だから、歴史的に重要な痕跡だから、その当時の技術にしては凄いから、と。このアジャンタ石窟の素晴らしさは、今の美意識や技術水準に照らしても遜色ない美しさに加えて、経年変化なくして得られない雰囲気を纏っていること。
あの空気感をどうしたら忘れることなくいられるだろう。
井上靖さんには敦煌に続いてインドの物語を書いて欲しかったと思う。
アジャンタ石窟の入口にはなんとも大きなガジュマルの木が気根を目一杯に地に降ろしている。
これまた石窟とガジュマルというのが合う。ガジュマルの樹容に何か仏教義的な何かを勝手に人間は見出してしまうのかもな。
関東以北では気根が滝のように流れるほどには育たないものか。 伐採乾燥されたガジュマルの気根の束が装飾品として売られていないものかね。
死ぬまでに再訪したい。その時、このブログを見返せたら自分は何を思うのか。どう感じ方が変わっているだろうか。