全てに対する醒め

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全てを醒めた目で見てしまい沈鬱になる。

 

歌手を目指したいという人に対して、毎日8時間歌ってみて、それを○ヶ月続けてもまだ歌うのが好きなら歌手を目指せば良い、といった助言がどこかネットに載っていた。

 

一年毎日轆轤をまわしたり作陶したら飽きると思っている。少し離れたらまた無性にやりたくなるとも思っている。毎日の生業としてフルコミットできないのならば不適格というのならば私は陶作家としても職人としても不適格だろう。しかし世の中、そんな人ばかりではないのかね。それが凡人というやつなのではないか。殆どの人は凡人で、その凡人が住まうのがこの世界であり社会なのでは。
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一方のサラリーマンとしての立身出世にすでにうんざりとしてしまっている。役員に出世することも起業することも大企業に育て上げることもやりたい人がやれば良いし、私は興味がないことを早い段階から気付かされてしまった。求められてもいないのに退勤時間以降も仕事をするような情熱や仕事において成し遂げたいことはないことも自覚した。その上で比較的やりたいこと、成し遂げたいことを選んで取り組んでいる。それでもほぼ毎日働いている。

 

趣味も無責任な気楽さで楽しんでいる程度。全てを投げ打って一意専心して仮に名の通った陶芸作家になれたとしても自分はそれでもって幸せにはならない気がする。突き詰めたが故に、この拘りも伝わらずに表面の雰囲気で褒められてるんだろうな、という醒めた目をしていそうだ。

 

ウクライナ汚職やロシアの侵攻、パレスチナイスラエルの戦争を見ても人類や社会は本質的に進歩しないことを今のところ証明し続けている。残念なくらいに、世の中の賢い人たちがより積み重ねられた歴史の教訓を活かしてより良い世の中へと先導してくれている実感はない。

 

これでないと自分は生きていけないという強烈な執着もない。幸か不幸か、なんとなくで家族を養っていくこともできている。
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あらゆるものに執着が無くなっていく。良い意味での希望や情熱、悪い意味での執着や欲が徐々に無くなっていく。残念ながらその先は平穏な境地ではなく虚無主義に向かっているようにしか思えない。全てに諦めて虚になっていくことと禅の境地や空との違いがわからない。

 

そういえば覇気がない、欲がない若い世代を乱暴に一括りにして「悟り世代」と名付けていた。多分、それは悟りではない。そして若い世代よりも私のような中年世代の方が深刻なのではないだろうか。むしろ若い頃に既により多くのことへの諦めや失望から出発できたならさらに先に進めるようにも思う。

 

希望に溢れた人の邪魔をしたくはない。人の役に立って生き生きしている人を眩しく思う。自分がそれらの邪魔をせずに身を置けるところは今いるここではない気がする。

 

これを数年後に見返してどう思うか。結局は変わらずむしろ虚無感は増しているのか。あの頃はこんな風に思っていたのかと遠く客観的に眺めるのか。