失敗だらけの転職に思う 三角三色鉢に姫春星

去年の2〜3月は転職活動真っ盛りで15社近く応募して6社から内定を頂き、そしてちょうど1年前の今頃、自信満々におそらくは最もハズレの選択肢を最良の選択肢だと勘違いして選んだ。6つも選択肢があってよくぞ判断を誤ったと思う。そして4ヶ月で辞める醜態を晒した。

再転職した会社では半年が経った。「〇〇さんが来てくれて本当に良かったですよ」「まだ半年ですか、もう数年いる気がします」なんてことを言われることが最近、度々あって職場ではそこそこ歓迎され重宝されているようなのでもう少しはこの会社でやっていけそうだし4ヶ月で逃げた判断はそれなりに正しかったと思われる。

 

自分の判断力をもうそんなに信じていない。今まではそれなりに大きな決断をいつだって正しく下してきたと思っていた。

 

転職失敗を重ねて会社員としての山を登り続けることにいよいよ興味がなくなってきた。

 

今の会社にもやる気に満ちた若い人たちがいて、一緒に話していると交わることのない隔たりを心の中で感じている。キラキラした目で話しかけてくる若い人たちにその熱意を損ねないように装って応対する。自分が冷めるのは勝手だが、若手を腐すのは違う。

 

また派手な人員削減があり、自分のチームでも欠員の補充はない中で業務範囲は広がり、これまで以上に長い労働時間を働いている。

 

会社で、同僚の前で、仕事に熱意を持った人間だと装う度合いがこれまでの社会人人生のなかで最大化しているように思う。内側の芯はますます冷えていくのに表面温度を上げて誤魔化している。その乖離が増した状態はいつか破綻するのか、仕事を続けていくための新たな均衡なのかわからない。

 

シニア向けの雑誌やネット記事を見渡すと人生後半戦、定年の年齢を見定めていかに緩やかに下山するかなんてことが指南されていたりする。多分私は同世代がまだまだ登り続けている中で勝手に職業意識において下山を始めてしまっている。まだ定年まで長い年数が残っているのに下山し始めているのだ。そのくせ殆どの人には私はまだ登り続けているように映る振る舞いをしている。

 

最近、そんな自己乖離に呼応して作陶熱は高まっている。AIと3Dプリンターが廉価になれば私の作るものなど代替されてしまうだろうな。代替されないとしたら代替するほどのニーズがないからでしかない。あるいは読み込ませる数例に乏しい場合だ。技術的には可能なところまで来てしまった。

 

AIと3Dプリンターが代替できても作陶したいと思うのだから、本当に自分は作陶が好きなのだと思う。

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13年前の陶芸を始めた頃の植木鉢。

 

あの頃には蟲やら冬虫夏草やらをモチーフにした植木鉢ばかり作るようになるとは思わなかった。そもそも植物を育てることの方が好きで、そのための植木鉢作りだった。今でも植物は好きだが、交配させて新種作出にのめり込んだり高額な希少種に手を出したりしないのでかける時間において作陶の方が好きな気がする。
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陶鉢作りにおいては自分にまだ先というか上があることを根拠なく信じられる。技術が追いつかなくて具現化できないイメージが無数にあってそれをそのうち形にできるようになりたいと思っている。やりたいことがある。

 

仕事ではもう下山を始めていることを否定できないが、作陶においては遠い山頂を目指して足が動き続けているのが、もうどうしようもない事実。
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作陶も飽きるのかもしれない。飽きるまでやってみないとその先はわからないと思っている。