今日は10時から18時まで作陶三昧。休暇の充実度が更に高まる。クリスマスの頑張りに妻が配慮してくれたと思われる。
赤土2号をタタラにし、それを犬のシルエット型に切って、爪楊枝で穴を開けて。たったそれだけのことに2時間もかかった。輪郭を綺麗に出すのがこんなに厄介だとは思わなかった。3mm厚のタタラなのだが、これでも分厚くて反対側からも同じ輪郭にするのが困難。さらに薄くすれば切るのは楽になるが反るし素焼きの段階で割れる可能性が高くなる。
これらに太い針金と糸を使ってモビールに仕立て上げようかと思う。骨付き肉に飛びついているもの、骨に向かって跳躍しているものを対にしてクルクルと回るようにしよう。
何せ戌年だからそれらしいものを作ろう。
一匹、一匹の裏に家族や親族の名前を書いてみても子供達は面白がるかもしれない。
異なる釉薬を掛けて釉サンプルにもできる。
白マット、チタンマット、月白、伊羅保、飴、柿、土灰、黒マットなどの彩度の低い釉薬を使っていきたい。
いっそのこと素焼きせずに釉薬を生がけしてみても良い。
午後にはまた鹿鉢を作り始めた。工事中。
折角だからそのまま写実を目指すよりも創作的な鹿にしたい。というわけでまた首をデフォルメして長くする。
今回は胴に対する頭の大きさのバランスは大分、改善された。さらに小さくもしてみたが、なんだか存在感が薄まってつまらなくなったので、今の大きさまで調整した。
まだ土は柔らかいはずなのに4脚で重い腹と首を支えられているので重心バランスは悪くないのだろう。
尻もプリッと。頭の角の位置にも穴を開けている。
単にまた角の代わりに多肉を頭から生やさせるのでも良いが、今度は神鹿のイメージにより近づけてみようかと思う。
で、神鹿らしく花托を載せてみた。広葉樹のように枝を茂らせる多肉植物をズドンと中央に植えてみたい。
眼を大きくした方が愛嬌は出るのだろうが、引き締めたかったので小さめに留めた。
更に神鹿のイメージに近づけるために鞍や馬具装飾を胸につけてみようか。もう少し土が乾いて硬くなったら脚を細く削り、細部を仕上げていきたい。
鹿の造形だけに3時間もかかってしまった。時間がいくらあっても足りゃしない。
あまりに美味しくて、確実に再度作ると思われるので残しておく。
そもそも、高円寺北口にある精肉店「JUMP」の肉が圧倒的に安くて美味しいことは付記しなければならない。冷凍し解凍した肉ではなく新鮮な肉を毎日、売り切りで販売してくれている。しかも安い。神楽坂で料理店を営む妻の知人がわざわざ買いに来て絶賛していたとのこと。そこの骨つき鶏モモ肉を使う。なんと100g100円。1脚300円。しかも調理時に骨の周囲の肉汁や旨みが滲み出るように骨の周囲に切り込みまで丁寧に入れてくれている。
そんな骨つき鶏モモ肉を4本使用
合わせ調味料
醤油大匙4
蜂蜜大匙2杯
おろし生姜2かけ
日本酒大匙2杯 (今回は純米生原酒使用)
醤油大匙4杯
黒胡椒適当
日本人の殆どにはクリスマスなんて関係ないだろう、と悪態をついていた時期の方が私は長い。昔の自分を棚に上げている自覚はある。クリスマスも起源は単に冬至の祭りだし、ま、いいか。私が子供の頃に比べてもクリスマスはすっかり幼少から子供たちの間にも定着し、無視して過ごすというのも難しい。
私自身には家族でクリスマスを祝った記憶はない。しかし子供の頃から残してくれた飾りなどを見る限り、クリスマスパーティーのようなものはしてくれていたらしい。
そういや長男が今日、高円寺と横浜の前はどこに住んでたの?京都なんだ。ぼく、その頃のことあまり覚えていないんだよね、と幼稚園児の割にはしみじみと大人びたことを言った。
結局、子供達が大きくなってからどれだけこの頃のモノゴトを覚えているかなんてわからない。しかし子供達が大きくなって行くにつれて辛いことも嫌なことも増えていくし、幼少の頃に幸せだったと感じられる記憶や記録は何かの折に些細ながらも支えになることがあるのではないか、と思っている。大層な贅沢はできないけれど、多少の余裕がある間は目一杯楽しませたい。
嫁さんが風邪でダウンしたこともあり、夕食は私が作ることに。以下、備忘録。
ハニーチキンhttps://www.kyounoryouri.jp/recipe/7752_ハニーチキン.html
煮詰める白ワインが蒸発するまで待てなかった。もう少し強い火力にすべきだったのかもしれない。結果論、火が通っていたし、美味しかったので良しとする。次男坊がこればかり食べたがった。高円寺の名物肉屋「JUMP」の素材勝ちかもしれない。
オニオングラタンスープ。https://www.kyounoryouri.jp/recipe/2038_簡単オニオンスープ.html
一番作るのに時間かかったのはこれ。玉ねぎをひたすら炒め、さらに無塩エシレバターを加えてこんがりと炒める。エノキやエリンギをふんだんに入れるというアレンジレシピだが、きのこ類のトロトロとした食感は合う。刻みパセリとチーズを乗せて焼いたバゲットを漬けて食べるという方式。
たこのエスカルゴ風
https://www.kyounoryouri.jp/recipe/3270_たこのエスカルゴ風.html
これはどちらかというと酒の肴。蛸の弾力は幼児には堅すぎたようだ。レシピよりもバターを軽くし、新鮮な蛸ならば火を入れすぎずに強火で一気に炒めた方が良さそうだ。晩酌のアテにまた作ってみたい。
ケーキは息子がキウイと苺を飾り付けてくれた。スポンジの2層の間にこれでもかとキウイと苺のスライスを敷き詰めてくれたおかげでかなり嵩の高い豪華なケーキになった。有名店に頼んでもクリスマスケーキは作り置きの解凍品だったりして酷くがっかりすることもある。作りたての生クリームとフルーツを盛りだくさんにすると素人が作っても手堅く美味しい。
来年は生クリームを絞ってこんなオンブルケーキを作ってもらおうか。もっとぐちゃぐちゃになるのかもしれないが、良しとする。
9ヶ月前のフランス出張でアルザスから苦労して持ち帰ったキャンドルスタンド。こういうものを陶器で作ってみてはどうだろうか。いっそ、さらに和の方向に張り切って、蚊取り線香を灯す陶製の蚊遣りにするとか。
ここ半年間、息子が義理の母に強請り続けたプラレール「ガチャットアクションステーション」が届いた。箱からして既に大きい。またプラレールが部屋中に散らかることだろう。夜中にトイレに行く際にプラレールを踏んで痛みに目を覚ますあの冷や汗は格別だ。
食後にツリーを中庭に設置して、ダウンジャケットを着込んでホットココアでもみんなで飲もうかと思っていたが風邪気味の人が多いので割愛。来年はしてみたい。
今のところ子供達も大いに喜んでくれるから、コテコテにクリスマスを盛り上げるのも良しとしよう。
「今日のご飯、美味しかったね。おとうさん、今日は頑張ったね。お疲れさま。夜はぐっすり寝るんだよ。お父さんはプラレール好きな人だよね。明日一緒に遊ぼうね」と少し上から目線なお言葉を賜った。まだまだ素直で可愛い時期だ。
親の心、子知らず。独身の頃は自分が子供に対してこんなに心を砕いてあれこれするようになるとは正直、思わなかった。子の幸せを願ってするあれこれからは見返りはないし、空振りに終わるかもしれないし、大きなお世話になるかもしれない。それでも何かせずにはいられないのはそこに意味や役割を見出したい親の業かね。些細なことからも仕事よりもやり遂げた感を得やすいのが本音。
朝起きてプレゼントに歓喜の子供達。「サンタさんに会いたかったなあ。来年は会えるように作戦たてる」だとさ。
早速、マンゴー殿に私の早朝5kmのジョギングにお付き合いいただいている。
4kmを過ぎたあたりから犬の方が小走りで走り続けることに飽きてきてしまう。しかし体力の衰えもあるのではないか。
京都にいた頃は比叡山や東山のトレッキングコースを縦横無尽に走り回った。ロードバイクに引かれて賀茂川を何キロも並走した。
東京に来てからは山に行くことなど殆どなくなったし、おでかけは子供が優先されて、そこにさらにマンゴー殿に同行していただく余裕はなくなった。家にいる時間ばかりで1日に短時間の散歩では体力が落ちるのも当たり前だ。
本人はまんざらでもなさそうな表情をしているが、マンゴー殿は幸せなのかと思うときもある。世の中は広いのに毎日、家の中でつまらなくはないのか。毎日変わらない生活でつまらなくはないのか。
しかし我が身を振り返り、大きな視点で見ると自分も何が違うのか。世の中はこんなに広いのに毎日、同じ街に住み、同じ職場に朝から晩まで詰めて、帰って寝る。職場ではPCなんてものを開いてひたすらカチャカチャ打ち込んで、あとは電話で話しているか、似たような顔ぶれの人と話をするだけ。毎日、つまらなくはないのかね、幸せなのかね、と誰かは思うかもしれない。いやいや、キャリアも積んで職責も増え同じようなことをしてるように思えても面白みを感じていることもあるんですよ、と。マンゴー殿にしろ、家の中の変わらぬ日常の中で変化やブーム、新鮮な発見はあるのかもしれない。私が理解していないだけで。
いつもダイナミックに頭が振動する。ロックな縦ノリだ。頭掻きすぎて脳細胞がプチプチ潰れてしまわんのかね。
高円寺の飲食店の好きなところ。これはやはり、バイトばかりのチェーン店よりも顔の見える個人経営店が多いことに尽きる。高円寺で複数店舗展開している系列店もあるが、高円寺界隈で4、5店舗といった塩梅。いつも同じ顔がいて、今日は特別にどこどこ店からヘルプなんですよ、と話してくれたりする。
わたしの好みの隠れ家的穴場レストランカフェ「こころみ」でルーマニアワインの食事会が開かれた。ここは普段から独創的な創作料理を美医食同源のコンセプトのもとに天然素材にこだわって出している店で、今日はその料理に8種ものルーマニアワインを合わせるという企画。
私がルーマニアで働いていたのは17年前で、その当時のルーマニアワインはお世辞にも洗練されたものではなかった。ソ連邦に属した共産主義時代は加盟各国に貢献する生産品が割り振られており、夏は乾燥し日照に恵まれたルーマニアの環境を見込まれ、小麦やワインの生産が盛んだった。しかし質よりも量が重視され、一本の葡萄の木から何本ものワインを収穫することを目指すようなワイン造りだった。17年前当時も安く、軽く、薄いワインを時にはコーラやらと混ぜてガブガブと飲む状況だった。
それからEU加盟もあり、フランス、イタリア、スペインからの技術移転もありルーマニアワインの質は劇的に向上した。しかし格付けが値段に顕著に反映されるワイン業界においてルーマニアワインはまだ安い。欧州におけるアルゼンチンワインのような位置付けではなかろうか。
私がいた昔にはこんなに美味しいワインは簡単には見つからなかった。
食事の上でのこの日1番の収穫は、蕎麦ソムリエなる人が来ていて、常陸秋蕎麦というとても美味しい蕎麦を打って出してくれた。しかもツユではなくオリーブオイルと粗塩で頂くというもの。それがあんなにも蕎麦の風味を味わえて美味しいとは知らなんだ。こればっかしはルーマニアワインに合わせるのは建前でただ客に極上の蕎麦を食べてもらいたかっただけだと疑っている。
ルーマニアワインの宴の15席は満席で、那須塩原や愛知などの遠方から来られた方もいた。しかし殆どの方は高円寺在住で、しかもお寺の住職の奥様だったり、母娘で歌手をされていたり、語学スクールやプレタポルテの工房を経営されていたりと面白い経歴の方が多かった。「こころみ」の店主の人柄を軸に繋がったお客さんであり、時には協働する仲間たちといった印象。地域に根差して、面白い人達の繋がりの網が素敵だと思った。
その「こころみ」の近くを別の日に歩いていて、あまり通ることのない路地に「ハッピー」というハンバーガー屋さんを見つけた。
店主に聞くと2017年の夏に開業とのこと。1,000円〜1,500円程度の価格帯で大きなハンバーガーにフライドポテトが付いてくる。
アボカドチーズバーガーを頼んだが、私なんかが指摘できる欠点などなく美味しい。炭火焼きでパテに脂のこってり感が残っていないのが嬉しい。カリッとしたバンズ、トマトの肉厚感。
高円寺にもいくつかグルメバーガーの店がありますよねという話になって、ファッツが閉店したことを聞いた。吉祥寺に移転したらしい。樽のような太った白人のおっさんが、いかにもハンバーガー大好きといった空気を纏ってハンバーガーを作っていた。好きだった。
新高円寺の環七と青梅街道の交差点近くにも「バーガーズカフェ グリルフクヨシ」というグルメバーガー屋が出来たが、しっくり来ない。看板もメニューも綺麗に作り込まれたチェーン店で店員のハンバーガー愛をそこまで感じないのだよな。テイクアウトの店員が忙しげに行き交うのも落ち着かない。偏見持ちで申し訳ない。雇われ感が滲んでいるというか。テーブル席主体で作られたら料理が提供されるだけ。一人で食べに行っても、独り無言で食べて出るだけだった。
ISLETという中野五差路近くの店は遠くてもはや商圏が違う。残るグルメバーガーはエルパトだが、あそこもテーブル席で誰かと行く店の印象が強い。いや、カウンターもあったか。ハンバーガーの為のバンズを独自開発するほどのハンバーガー愛に溢れ、テラス席が気持ちの良い店だ。
高円寺北のエルパト、南のハッピー。南北の両横綱。そういうことにしよう。
なんだか、大きな後ろ盾なく頑張ってそうなこの店に肩入れしたくなる。何せハンバーガーは美味しいし。以前、自分でも作ってみたがなかなかこんな風に美味しくパテを焼けないのだよな。新宿にバンズをわざわざ買いに行って作ったことあります、なんて話をしたところ、即座に「峰屋さんですか」と返ってきた。彼の出すハンバーガーは彼がいろいろ研究を積んだ末の彼にとってのベストバーガーなのだと思う。ちなみにパテはアルミフライパンではなく、炭火鉄網で焼くと縮みにくく美味しく焼けるそうな。
「こころみ」「ハッピー」を通じて何が言いたいかというと、一人で行っても孤独を感じずに適度な距離感で気安く入れるような店を私は高円寺に求めている。全く独りもつまらないし、友達に声かけるのも煩わしい時に程よい雑談相手になってくれる店。それに応えられる店が多いのが高円寺の魅力だと思っている。友人知人と食べに行ってももちろん楽しめるし、一人でもなんとなく人との接点を感じられる。独り身に居場所がある街。
いつまで掛かっているかは知らないが、ハッピーには壁にストリート感あふれる若くて素敵な女性の写真が並べてある。マスターの歴代彼女か、是非聞いてみて欲しい。
暖かくなったら犬の散歩がてら、店先の椅子で頬張るのも良いかもな。小さなコーヒーテーブルがあれば理想的。
ハッピー ザ バーガースタンド
【火〜金】12:00〜15:00 / 18:00〜22:00
【土日祝】12:00〜19:00
月曜休日
外部の講演に勉強しに行ったりするのだが、某有名大企業の最年少取締役だとかそういう人が、とても熱量を持った話をしていて、敵わんな、と思う。経歴は輝かんばかりで、成功するべくして成功したような武勇伝と自信に溢れている。そんなに仕事に全てをかけたこともないし、断固とした不退転の決意で勝負をかけたこともない自分としては異国の人に見える。世の中には凄い人がいるもんだな、と。
元電通の最年少取締役だった有名クリエイターが、有名なプロガー作家に酷いパワハラ・セクハラをしていたことを最近、告発されていた。昔はセクハラへの認識や意識が低かったが学んでそれらを悪しきことだと認識した、というようなことを釈明謝罪文に書いているが、セクハラといった言葉や認識がなくとも人格の問題だろうに。クリエイティブの天才は見苦しい弁明で自らに留めを刺して地に堕ちた印象。情報社会の私刑を回避し損ねてしまった。
神戸開港150年に合わせて世界一のクリスマスツリーを作るという企画があり、プラントハンターの西畠清順氏が取り上げられていた。植物好きの私としては氏は雑誌に幾度も取り上げられており以前から知っていたがその内情が今回の炎上事件で漏れ伝わるにつれ、彼への理解と印象が根底から揺らいで悲しい限りだ。
ドロドロとしたことが溢れ出てくる。真偽のほどはよくわからないけど、雑誌で描かれる純真爛漫な植物愛好者、冒険家というイメージを持ち続けることは厳しい。誰も疑わないうちは自己演出が効いていた商売上手だというだけだったのか。「心を掴むために」細部を大衆の受けが良いように「アレンジ」することを積み重ねてきた様子。「ロックフェラーセンターのツリーは全世界でニュースになるから、同じ日に俺が運んだ世界一高いツリーで世界中を驚かせる」などの発言が自分の名を売るための利己的な人と思わせるのだろうな。
かつて、カーリー・フィオリーナは古い経営を否定した時代の旗手として、女性キャリアの一つの頂点として崇められていたっけ。今や、歴史に残るCFOの悪例とまでされている。乙武さんも強烈な堕ちた偉人の一人かもしれない。個人的に失望感が強いのはレインマンで名演したダスティン・ホフマンがセクハラで訴えられていることか。残念極まりない。
完璧な人はいないのだろうけど、心の中で長く尊敬し続けられる人というのがなかなかいないものだ。昔はプライベートや本人の二面性が表沙汰にならなかったからか、あるいは他人には検証不可能だったのか。世間では英雄、近しい人たちからは否定的な意見、というのは案外と多いらしい。情報社会というやつは派手な神話が作られやすいがその虚構も暴かれやすく、長く語られる偉人の生まれにくい世の中なのだろうか。
少なからずエゴイストで自己顕示欲が強くないと広く認知される現代的な成功者にはなかなかなり得ないのか。メディアが飛びつく売り出しやすい見た目やエピソードを持った人。人が気にしないであろう細部は虚飾して、世間が目を止める成果を効率的に、時に強引に積み上げていく人、それらを声高に自己主張していく人が階段を駆け上っていく人達なのかもしれない。細部を詐称捏造していても面白い話を持ってきてくれる人の方がメディアには重宝されるし、詐称捏造がばれてもメディアも私達も騙されたのです、と被害者ヅラして検証作業や裏取りを怠ったことを棚に上げやすいのか。
炎上したプラントハンターの西畠清順氏や元電通の岸勇希氏など炎上した元英雄の共通点は何なのだろう。その実力、権限、資格に伴わない富や名声や便益を不当に得ていたこと、公の言動と裏の素行が乖離していたことに対する怒りなのかもしれない。岸氏の場合は実力はあったが、だからといって若い女性を隷属させたり肉体関係を強いることが許される資格などない。
私が尊敬する宮大工の西岡常一氏。彼とて、近くで知る人柄は世間に知られているそれとは違うのかもしれないが、少なくとも不相応な利益や名声を得ようとする人ではなかったように思う。
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虚飾に溢れて本物がわかりづらい世の中。尊敬する人として現役の著名人を挙げるのが憚られてしまう。なんだか残念だ。私みたいな人間には安心して慕うことのできるヒーローが欲しい。
華々しい経歴や武勇伝に溢れ、自分の売り出しの得意な人に比べて、脚光を浴びることなく富も名声も得ることが不得手だけど地道に何か素晴らしい伝統工芸を生み出している作家や職人。そういう人達をサポートできる仕事がしたいなあ、と思った次第。
例えるならば元ヤンキー先生よりも苦悩しながらも先生を長く続けている話題性の皆無な良先生。そんな職人や作家を支援したいのだよ。
一週間ほど前に、前職の同僚と銀座で食事をした。
行ったのは残念ながらすきやばし次郎ではない。たまたま通りがかって撮っただけ。
前職の近況を聞いた。もう私が在籍した最盛期の1/3ほどの組織規模になってしまい、知っていた人は殆ど辞めてしまっている。私が残したものなどあるかもわからんし、あっても誰も知らんだろう。振り返ってみれば出会いもあったし学びも多かったけど、離れてみれば綺麗さっぱり、あっさりとしてるものだな、と。
勘違いだろうとも、自分で納得のいくこと、胸を張れることをもっと考えていくべきなのかね。悶々。
西畠氏は犯罪を犯したわけでは無い。彼が大衆受けの為に見せようとした本人像と実態が根掘り葉掘り検証してみると違うから叩かれているが、彼は彼の信念を持って事を成している。世の中で大きな企画を実現するためには、馬鹿正直にやっても見向きもされんだろ?そういうエゴイズムをさらけ出して植物を使って自分の望む光景を生み出す人がいても良いのではないか。鎮魂の場を自分の成り上がりのショートカットの場にしたから不快に思う多くの人に曝されてまずかっただけ。そんな彼のスタイルが好みでないならば、自分の好みのスタイルで胸を張って何かに挑んでみろ、という自己叱咤な話。
珍しく愚痴。馬鹿正直にコツコツやっている人が割りを食らうケースをいくつか見て、 もやもやを吐露したくなった次第。