もう半年も作陶していなかった。転職活動やらなんやらで心に余裕がなかった。時間はあった。しかし心のどこかで作陶してる場合じゃないと思うと作陶する気になれなかった。大好きな趣味も、公私が好調でこそ身が入るものなのだな。
半年も乾かしたままの作品を工房に見に行ってみた。数度か大きな地震もあった。もしかしたら乾燥して割れたり分解してしまっているのではないかと危惧した。
どうやら無事なようだ。
それにしても乾燥したらなぜこんなに色がまばらになっているのだろう。同じ土を使っていたはずなのだがいつの間にか混ざるなんてことがあるだろうか。
そういや数日前、数年前に作った作品を2万8千円で売ってくれという話が来た。そこまでの価値があるか甚だ疑問だけれども、同じものを作れる気もしないので手放すのも躊躇われる。しかし最終的にはそんなに払っても良い人がいるなら売ることにした。
もっと基礎を学んで1日100個湯呑みを轆轤で挽くようなお約束の鬼練習をして基礎的な技術力を身につけようかと度々思ってきた。しかしその考えも最近、変わってきた。
職人の技というのは昔に於ける機械による大量生産と同じ位置付けだった。同じ寸法で短時間に大量に人の手で作る。そのような職人の手作りの品は機械ではなく手で作られているから良いというものではなく概念や制作意図は工業製品と本質的には変わらないと岡本太郎は言っていた。その通りだと思う。
もし作品を売り続けるならば、あるべき姿は何なのかを考えてみる。自分が欲しいものを制作して、手放す悔恨と共に売る。私という作家が自分の好みと世界観に照らして自分の為に作ったものを所有するほうが、購入者としても不特定多数に売るためにたくさん作ったものを手に入れるよりも価値を感じるのではないか。
工業生産品と似た端正な湯呑みを販売目的に大量生産しても作り手の私も楽しくないだろうし、そんなものは1000円程度の売物にしかならない気がする。
時間と労力をかけて職人的技量を身につけた先にあり溢れた変わり映えのしない陶器の量産が待っているならば私にとっては不毛だ。
同じ寸法を大量に作れるようになるような技量的訓練をしない。
本物に近づけるために写真資料を見ながら作るようなこともしない。自分というフィルターを通して羊を、鹿を、虫をどのように認識しているかがそのまま不正確でも現れている方が面白いし独自性が残る。
より良いものを作るための努力を怠るわけではない。量産模作スキルや本物そっくりに作る写実デッサンスキルを高めることに時間も労力も掛けないかわりに、純粋に自分の中でのより良い形を模索していく。手癖や先入観が如実に現れるとしても、それを肯定していきたい。
完全に乾燥してわかった。これは異なる土を混ぜて使ってしまったと断定できる。
施釉したまま半年も放置された作品も並んでいた。「羊を被った女の像」を素焼きするにはもう少し素焼き作品を溜めないといけない。
陶蟲夏草鉢シリーズ、山羊胸像シリーズを作り足すとするか。
それにしても家族、仕事、衣食住のうちどれか一つ欠けるだけで生活はとても苦痛に満ちたものになる。それがどれも複数同時に失われているウクライナの状況には暗澹たる思い。