映画、小説や漫画でとある人物が最愛の母や子と自宅のベッドにミイラ化したまま一緒に暮らしており、図らずも来訪した人が「もう死んでるじゃない」と絶句するような猟奇的なシーンがある。
正気を失った猟奇的な人として描かれるが、今にして思うと気持ちはわかるしそんなに猟奇的なことだと思わない。私に妻子がおらず一軒家で一人暮らしをしていたら、そのまま家の中で亡骸を朽ちるがままに見守りたい気がする。どんなに腐臭を放つとも、蛆が湧き液体が流れようとも。
ウルク王ギルガメシュは最愛の友人エンキドゥの亡骸に蛆虫が湧いていくのを見て、不死を求めて旅に出た。そしてついにというか、やはりというか不死の法は見つからなかった。
私は犬を家族の一員だと思っているが、所詮ペットはペットだと思っている。道端で犬を散歩している人同士で会った際に男の子ですかと聞かれてもうちのトイプーはオスですと答えてしまう。相手がうちの子は女の子なんですと言っているのに対してはメスですかなどとは言わずに相手に合わせるけれども。
人間と同じ家族の一員のように扱うことには違和感がある。葬式をあげたり戒名をつけたりはするつもりはない。飼犬は飼犬として躾けて可愛がってきたつもりだ。人間の食べ物は極力与えず、ドライフードを与えてきた。
だからもっと理性的に看取れるものだと思っていた。犬の方が当然寿命は短いし先に逝く。それなりに可愛がってきた自負もある。長く病に苦しまずに終われたのは良かったではないか。そう頭で思っても、気力が湧かない。悲しい実感はあまり無いのに、ふとした瞬間に勝手に涙が出てくる。意識で自分を律することができないほどの影響をマンゴー殿の死から受けているとは。
マンゴー殿を失ってみて、妻子を失うのが自分の人生の最大のリスクだということが良くわかった。もし事故で無くすようなことがあって1人残されたら、もういいやと思ってしまう気がする。
妻子を失ったら自分自身に存続意義を感じなくなるとはどういうことなのか。自分自身単体に価値を見出していないのだろうな。まあ、それはそれで実感なので仕方がない。
この3ヶ月、マンゴー殿や子供たちの相手を十分にできなかったという後悔がある。週6で働いていたので夏休みに旅行にも連れていけず、自分自身に本当に余裕がなかった。そんな働き方に意味はないとわかったが、そんな働き方をもしかしたら今後3〜6ヶ月も続けないといけないかもしれないことに強い不安を感じている。
しっかりと家族に時間を割ける生活基盤を再構築するためにも必要な我慢の期間となるのか。大事なことを大事にできない本末転倒な過ごし方になってしまうのか。人生に大事なことなどそんなに多くはないように思うが、その数少ない大事なことをどれだけ大事にできるか。それが不安だ。