2015年4月に来たのをよく覚えている。むしろあれから7年も経ったということに驚く。
前回来訪時には案内係の人と雑談して檜の柾目材しか使っていない材料のこだわりや座った際に最も庭が美しく見えるように長押、鴨居や梁を低く設計したことなどをあれこれ熱心に聞いて心に留めながら回った。
今回は「早く次の部屋に行こうー」という息子たちの声に追い立てられながら足早に見て回って終わったように思う。同じ場所を訪れても吸収できる情報が減ったことに残念さを感じつつも、大人ほどの辛抱さはなくともそれなりに子供が何かを感じてくれたならば良いように思う。
鉄骨枠で支えた全面スタンドガラスのボールルームなど相変わらず素晴らしい。
もうここまで来ると7年の歳月は見た目の変化をほとんど起こさないのではないか。
外から見る姿も素敵。ここにドレスアップした高貴な人が姿を見せたらさぞかし異なる世界の人、高嶺の花に映るのだろう。中から見たら素敵ではあれども手入れの大変な華美な家屋でしかないとしても。
前回、この暖炉にえらく感銘を受けたことを覚えている。少し薄暗い中で一人佇んで何枚も撮った写真は前回のものの方が遥かに自分自身の関心の高さが表れている。
個人宅の風呂としては破格の贅沢さよ。来客に自慢するためのものでもあったのか。
欠かさず活けられている花も見事。
尾崎紅葉の金色夜叉の装丁意匠が秀逸。題字のフォントといい、なかなか目にしない個性。本棚に飾りたくなるこんな装丁を増やしてほしい。
前回は気にも留めなかったが「人間失格」が戦後の混乱期にこんな上流階層しか泊まれないような高級旅館に24連泊もして執筆されたなんて印象が違う。赤貧の雨漏りするような木造長屋でさまざまな消化できない葛藤や憎悪を腹に溜めて書かれたものだと勝手に思い込んでいた。富裕層の妄想かよ。そういえば太宰治は青森有数の大地主、高額納税の貴族院議員の子だったか。私の勝手な先入観に過ぎなかったとはいえ、こんな贅沢な旅館で書かれた金持ちの退廃文学を庶民である自分らは読んでいたわけか。
パンとサーカスとはよく言ったものだ。
「来宮の大楠の若葉する
五月の山をわれはいでたつ」谷崎潤一郎。
あの同じ大楠を谷崎潤一郎も見上げたのだね。ほんの少しだけ前にすれ違った人のように思えてくる。